振り返って見ると(No.105)

 私事で恐縮ですが、四月十日で、黒崎教会に赴任してから、10年目を迎えることになりました。歩んで来た道を振り返ると、心は喜びに弾み、感謝の気持ちで満ちあふれます。神に対しても、皆さんに対しても。神と皆さんの助けと支えがなければ、司祭として生きることは不可能なことになるからです。

司祭が単に冠婚葬祭を司るものだけなら、その助けと支えは差程必要とはしないでしょう。しかし、イエス-キリストの司祭は、宗教団体の幹部職員とは違います。司祭は、神と神の民に奉仕し、イエス-キリストの後について行くことがいかに意義のあることか、どれ程素晴しいことかを証しするために一生を捧げた人です。パウロは福音について言われました、「私達はこのような宝を土の中に納めています」と。(2コリント4、7)すなわち、弱い人間である司祭は、神と皆さんの助けと支えなしに、忠実に福音に相応しく生きることが出来ないということです。

私にとって、神の助けは、荒地にしたたる露のように日常生活を潤し、心の中で命の泉となる神の言葉です。その道しるべなしに、皆さんと同じように、私もイエスに倣って生きることが出来ません。
神の支えは、パンとぶどう酒という素朴なしるしを通して与えられる、人となられた神の命です。その糧なしに、皆さんと同じように、私もイエスと共に人生の道を歩むことが出来ません。

そしてそれは、教会、私達の母なる教会を通してであり、母なる教会のおかげです。その教会を代表しているのは皆さんです。皆さんに奉仕することは、私の誇りであり、私の喜びでもあります。聖アウグスチノの言葉を借りて言えば、私も皆さんと共に、神の民の一員でありながら、皆さんのために、司祭です。その司祭は、常にパウロの次の言葉を心にとめています。「私が福音を告げ知らせても、それは私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、私は不幸なのです。」と。(1コリント9、16)

言うまでもありませんが、私の生き方は、その理想から程遠いものになっていることをよく知っています。そのためにつまずき、きずつけられた方がおられるかもしれません。その方々に、心から赦しを求め、深くおわび致します。

そのような私であるにもかかわらず、微笑と心遣い、親切と理解、寛大さと愛情、多くの犠牲を伴う素晴しい協力を注いでくださった黒崎教会の信徒の皆さんに心から厚くお礼を申しあげます。
 この十年目を迎えるに当り、神への感謝を分かち合っていただければ、誠に光栄で、幸いと存じます。

 また、今から私に委ねられる時間を共に過ごし、黒崎のキリストの共同体を、いっそう、イエスとその福音に相応しい共同体にするために、心と力を合わせていただければ、誠に嬉しく、ありがたく思います。

 皆さん、今後とも、よろしくお願い致します。
2004年5月
ベリオン・ルイ神父

復活したイエスを信じるってなぁに(No.104)

 フランスの知り合いの女性が、輪廻転生を信じていると以前から言っているのですが、それに対する彼女の理解はあまりにも単純すぎているため、たびたび楽しい議論を繰り返してきました。先日の電話で、冗談のつもりで、私は彼女に次のことを言いました。「君は死んでから草になるとすれば困りますよ。だって私は牛として再び生まれたら、君を食べてしまうかもしれません。いやよ」と。おかしな話ですが、輪廻転生に対するその知り合いの女性の理解のレベルと、復活に対する一部のキリスト者の理解のレベルは、差ほど変わらないかもしれません。

 私達が死んでから、どうなるのでしょうか。それに対して好奇心を持つことは不思議なことではありません。そのためでしょうか。「天国」と「地獄」について、人は豊かな想像力を活かして、様々な話を作りましたが、それは物語であることを忘れたら困ります。福音書の素朴さに倣う必要があると思います。イエスが生きて現われると、その人がイエスであることを弟子達はわかりませんでした。正にその通りでなければなりません。そうでなかったとすれば、イエスは亡くなっていないことになるからです。イエスは生きておられるとすれば、今から、しるしを通してしか出会うことができません。傷痕を見せたイエスの話がありますが、それは、生きて現われた人と、十字架の上で亡くなられた人は、同じ人であることを教えている話です。「イエスが復活して生きておられる」、そのことは信仰の対象でありながら、それは生活の中で体験することの出来ることです。

 空を飛び回る鳥を見るといつもその美しさに見とれていますが、よく考えてみれば、鳥には二つの翼があるからこのように優雅に舞うことが出来ます。復活への信仰においても、翼が二つ必要だと思います。一つは、証人であるイエスの弟子達の証言を受け入れ、もう一つは、今の私達の生活の中で、生きておられるイエスに出会うことです。ところが、頭では一つ目を受け入れたつもりでも、もう一つ目を体験しているとは限りません。弟子達は、生きて現われた人がイエスであることを、最初はわからなかったのと同じように。
復活して生きて現われるイエスの姿は様々です。マタイによる福音書の25章31-45が紹介しているように。

 今年の聖土曜日の夜、15名の方が私達の共同体に加わりますが、それは、イエスが復活して今生きておられることのしるしではないでしょうか。そのようなしるしはいくらでもあると思いますが、私達の信仰の目は、そのしるしを読み取ることが出来るでしょうか。
イエスの復活を信じるということは、私達が死ぬときにイエスは私達をお迎えし、私達に永遠の命を与えることを信じることを意味していますが、私達は本当にそれを信じるとすれば、日常生活において、私達も復活して生きておられるイエスを迎えるように心掛けるはずです。そうでなければ不公平ではないでしょうか。イエスご自身がそれを指摘したことを思い出す必要があるかもしれません。

「誰でも人々の前で自分を、私の仲間であると言い表わす者は、私も天の父の前で、その人を私の仲間であると言い表わす。しかし、人々の前で私を知らないと言う者は、私も天の父の前でその人を知らないと言う」と。(マタイ10、32-33)
2004年4月
ベリオン・ルイ神父

40日の間の歩み(No.103)

“人よ、よく覚えておきなさい。あなたはちりでできたので、またちりに戻ってしまうことを”。(灰の水曜日)。四旬節にはいると、教会ではこのような手厳しい言葉を盛んに聞かされます。
言うまでもありませんが、その言葉を“威し”のように聞こえ、そのように理解すれば誠に残念です。世間には睡眠剤のように心を麻痺させる言葉があふれていますが、人生、特にキリスト者の人生は、そんなに甘いものではないので、人に目を覚まさせようとする神の言葉は、真の愛の表われとしるしとなるかもしれません。

“イスラエルの人々よ、お前達が言う。「何故(神は)私達の断食を顧みず、苦行しても認めてくださらなかったのかと。 ...見よ、と神は言われる。 断食の日に、お前達のために労する人々を追い使う。 ...見よ、お前達は断食しながら争いといさかいを起こし、神に逆らってこぶしを振るう ...葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと、それをお前は断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。私の選ぶ断食とは、これではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく祈ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば、衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと...」と。(イザヤ書58、5-8)

 預言者達も、イエスも、私達に厳しい注意を与えているのですが、その動機は深い愛情であることを忘れてはなりません。

 四旬節は、回心を呼びかける時期です。回心、それは心の錆びを落とし、心を磨くことを意味しているだけではありません。重い病気には -罪の状態はそれなのです- バファリンや鎮痛剤では足りません。重病人には思い切った対策が必要です。四旬節は新しい心を作る時期です。目につきやすいが、しかし些細な欠点を直そうとするよりも、四旬節は、心の方針、ものの見方、考え方を改善する方に目を向けさせ、それにそって生きることを呼びかけています。それはどのような方法をもってかと言えば、

● 人に奉仕する心を積極的に養おう
● 他人の身になって考え、理解するようにしよう
● まごころをもって人を赦そう
● 惜しまずに人を助け、人の力になってあげよう
● イエスを生き方の目標にして、私達の力を集中しましょう。

 世の中からつまはじきにされている弱い人のことを真剣に考えているでしょうか。近所の一人暮らしの老人に声をかけたことがありますか。このような例を、いくらでも上げることが出来ます。

(イスラエルの祭司達よ)「あなた達は私の祭壇に汚れたパンをささげておきながら、“我々はどのようにしてあなたを汚しましたかと言う。” ...あなた達が目のつぶれた動物をいけにえとしてささげても悪ではないのか。足が傷ついたり、病気である動物をささげても、悪ではないのか」と万軍の主は言われる」と。(マラキ書1、7-8)私達は、“残り物”を神と人の分に当てる傾向があるのではないでしょうか。私達は、かじりかけのリンゴを友人に上げるでしょうか。知り合いの人に、いたんだお土産をもって行くでしょうか。ところが相手が神と無名の人になると、私達は平気な顔をしてかじりかけたものを差し出します。

 今からの40日の間の歩みを、回心の歩みにしたいと思います。
2004年3月
ベリオン・ルイ神父

祈る木を心に植える(No.102)

 毎日祈る方がおられる一方で、「全く」「ほとんど」「たまに」しか祈らない方も大勢おられるようです。ところが、祈ることなしに信仰生活は有り得ないことを新たに認識すべきだと思います。
「祈る」。簡単に言えば、それは父なる神を迎えるために心を開き、父なる神の声に耳を傾けることです。

 祈ることを考える時、私達は無意識のうちにも「祈りの文句を唱える」と思い込んでしまいます。確かに、祈るときに「言葉」は役に立つのですが、場合によって言葉を唱えるには忙しくなり、言葉が邪魔になって、誰に向かって祈っているか、どうして祈っているか、その意識が薄く成りかねないのです。

 祈ることには「沈黙」は必要です。最近、教皇ヨハネ-パウロ二世が、“沈黙の大切さ”を思い出させる文章を発表したことは、皆さんの記憶にもまだ新しいことでしょう。しかしその沈黙に耐えることは、それ程簡単なことではありません。その「沈黙」を、神との出会いの場にすることは、尚更難しいことです。しかし「沈黙」のうちに神を迎える態勢を整えることこそは、心に祈る木を植えることだと思います。

 福音書によく書かれていることですが、イエスは度々夜中に、一人で祈るために山に退かれました。私達一人ひとりが神から与えられた使命を知るため、そしてそれを果たすことが出来るために、どうしても、イエスに倣って振舞うように心掛けなければなりません。
 それを考えると、感謝の祭儀の間の「沈黙」は、「沈黙」の意味と大切さを理解するために、手助けになるかもしれません。

・回心の儀の時の「沈黙」。
・“祈りましょう”。司祭から祈るようにと呼びかけられる時の「沈黙」。
・聖書の朗読の後の「沈黙」。
・説教の後の「沈黙」。
・聖体拝領後の「沈黙」。

 *回心の儀の時の「沈黙」
その間に、自分の信仰の歩みを振り返り、どこまでイエスの福音に相応しく生きたかを、静かに顧みる。

*“祈りましょう”の後の「沈黙」
その間に、参加している兄弟と心を一つにし、心を開いて集中して、信仰のうちに全世界の教会が祈る言葉を心にとめる。

*聖書の言葉が朗読された後の「沈黙」
その間に、神からの教えを理解し、味わい、黙想し、それに基づいて自分の生き方を新たに方向付ける。

*説教の後の「沈黙」
話は旨かったかどうか。沈黙の時間はその評価のためにあるのではありません。その間に、言われたことを自分の生活にどう当てはめれば良いのか。自分の心に響いた言葉をどう活かすかを考える。

*聖体拝領後の「沈黙」
その間に、信仰の糧であるイエスに力づけられたことに対して、自分のうちに感謝の心を養い育てる。又、兄弟との連帯を深め、自分が共同体の一員であることに対して、認識を高める。そして、もうすぐ兄弟と共に“世界に派遣される”自分は、その中で与えられた使命を果たす決心を再び立てる。

 感謝の祭儀の間の「沈黙」にちょっとだけでも触れるとわかるように、「沈黙」をもう少し大切にすれば、自分の心に祈る木を植え、丈夫に育てることが出来ると思います。

 ところが、“「沈黙」について話すためにこれだけの「言葉」が必要か”と皮肉っぽく思うようになった方がおられるかもしれませんので、このあたりでペンを置きましょう。
2004年2月
ベリオン・ルイ神父

頂いたタレントを活かして(No.101)

 過ぎ去った一年は皆さんにとってどんな一年だったでしょうか。幸、不幸によってその評価は左右されるでしょうが、それを「土台」にして、それを「肥料」にして、新しい年を迎えるようにしてはと勧めたいのです。今年も社会と世界の複雑な状況の中で、私達は、神の国を築き上げるために遣わされています。それに積極的に取り組み、大勢の人と協力をしながら、それに励むように心掛けたいと思います。「み国が来ますように。み心が天に行われる通り、地にも行われますように」と。
 
 それに当って、年の初めに是非思い出していただきたいイエスの言葉があります。それは「タラントン」のたとえ話です。(マタイ25、14~30)それをゆっくりと読み、黙想し、かみしめて味わおうとすれば、この尊い新しい1年を空しくせず、旨く活かすようにと決心をたてることが出来ると思います。
 
 芸能界の「タレント」という言葉を皆さんもよくご存知のことですが、その言葉は昔のギリシアの貨幣、莫大な金額となる「タラントン」という言葉に由来しています。イエスのたとえ話以来、「タラントン」という言葉は神から与えられ、人が持っている可能性、才能、能力などを言い表すためによく使用されるようになりました。私達は数え切れない程の「タレント」をいただいています。生命、健康、衣食住、家庭、教育、環境、そしてイエスの福音を中心にした信仰です。神の国のしるしである教会に入り、人類と、同じ信仰を分かち合っている兄弟と共に、私達はこの地上で神の国を作りながら、その国の完成に向かって歩み続けています。その道において、いただいた「タレント」を活かして生きるように呼びかけられています。
 
 色々な面で恵まれている私達は、いただいた「タレント」を活かさず、愚痴を言うとすれば欲張りの甘えん坊のように振舞っているのかもしれません。そう言いながら、病気を患い、苦痛に堪え、死に直面している方々、不幸のどん底にある方のことを軽く見做そうとしているのではないことは、言うまでもありません。このような状態に置かれている方々も、「タレント」を活かすことが出来ると確信しているからです。その方々は、信仰のうちに希望を捨てず、十字架の上でのイエスと密接に結ばれ、復活への期待を証しすることが出来ます。この証しこそは、いただいた「タレント」を活かしているしるしです。
どの状態に置かれていても、大切なことはいただいた「タレント」を活かすことです。

-タラントンをもらった人は、怠けて何もしなかったのに、悪を犯さなかったことを自慢しました。しかし、悪を犯さないことは当たり前のことであって、そのために勲章を期待することはおかしな話です。
 
 今年も心を込めて、この世を-すなわち私達が住んでいる狭い場所をもっと美しく、もっと住みやすい、もっと愛、親切、思いやり、正義と平和、「微笑」のある所にするために励み続けましょう。

 私は好んで微笑を自動車のワイパーにたとえています。ワイパーは雨が降ることをやめさせることが出来ませんが、ワイパーのおかげで自動車は走り続けることが出来ます。神からいただいた「タレント」を活かせば、世の中は少しづつ神の国の姿に変わるのではと、私はその夢を抱き続けたい。

皆さん、新年明けましておめでとうございます。
2004年1月
ベリオン・ルイ神父

イエスの誕生:希望の灯り(No.100)

 絶望する人は、真っ暗な世界に沈んでしまいます。
 希望なしに人は、生きることが出来ません。
 希望なしに人は、幸せを味わうことが出来ません。
 それは、人間に限られたことではないようです。

 イエスの誕生は、そのことを明白に教えていると思います。神も希望なしに生きておられないのです。

 今年、黒崎教会は「希望の灯り」という観点から見て、イエスの誕生を祝おうとしています。
 
 -希望の灯り-
それは、愛のもう一つの呼び名ではないでしょうか。
神と人類との関係を描いている、神とイスラエルの民との関わり合いは、失望から希望への繰り返しの歴史であり、一風変わった言い方をすれば、失恋から恋愛への連続物語だと言えるでしょう。聖書を読むと分かるように、神ほど“失恋”の経験をした方はいないでしょう。しかし、神ほどそれに失望せず、いつも希望を抱き、愛し続けた方もいません。

 イエスの誕生は、まさにそれを見事なほど語っていると思います。私達にとって、希望の灯りと言うものは、“失恋”しても愛し続けることを諦めない、神の心にあるのではないでしょうか。
神ご自身は、私達の一人となり、どれほど私達を愛しているかを、命をかけて表そうとしたのです。イエスの一生は、十字架の上で終わったのですが、それは絶望ではなく、果てしのない希望につながりました。

 復活して、生きて現れたイエスは、愛が裏切りに打ち勝ち、愛だけが希望をもたらすことを教えました。イエスを通して、神による救いはそれなのです。もちろん、信仰なしにそれを受け入れることは出来ないのですが、私達の心の中に潜んでいる疑問に対して、神からの言葉は希望の灯りになるのです。その光に照らされ、その火に暖められる心は、いくら失望の闇に沈んだとしても、完全に希望を失うことが出来ません。
「クリスマスおめでとう」という挨拶を交わす時、私達一人一人は、すべての人が希望の灯りを心の中にとどめることができるように、と祈りたいものです。
2003年12月
ベリオン・ルイ神父