40日の間の歩み(No.103)

“人よ、よく覚えておきなさい。あなたはちりでできたので、またちりに戻ってしまうことを”。(灰の水曜日)。四旬節にはいると、教会ではこのような手厳しい言葉を盛んに聞かされます。
言うまでもありませんが、その言葉を“威し”のように聞こえ、そのように理解すれば誠に残念です。世間には睡眠剤のように心を麻痺させる言葉があふれていますが、人生、特にキリスト者の人生は、そんなに甘いものではないので、人に目を覚まさせようとする神の言葉は、真の愛の表われとしるしとなるかもしれません。

“イスラエルの人々よ、お前達が言う。「何故(神は)私達の断食を顧みず、苦行しても認めてくださらなかったのかと。 ...見よ、と神は言われる。 断食の日に、お前達のために労する人々を追い使う。 ...見よ、お前達は断食しながら争いといさかいを起こし、神に逆らってこぶしを振るう ...葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと、それをお前は断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。私の選ぶ断食とは、これではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく祈ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば、衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと...」と。(イザヤ書58、5-8)

 預言者達も、イエスも、私達に厳しい注意を与えているのですが、その動機は深い愛情であることを忘れてはなりません。

 四旬節は、回心を呼びかける時期です。回心、それは心の錆びを落とし、心を磨くことを意味しているだけではありません。重い病気には -罪の状態はそれなのです- バファリンや鎮痛剤では足りません。重病人には思い切った対策が必要です。四旬節は新しい心を作る時期です。目につきやすいが、しかし些細な欠点を直そうとするよりも、四旬節は、心の方針、ものの見方、考え方を改善する方に目を向けさせ、それにそって生きることを呼びかけています。それはどのような方法をもってかと言えば、

● 人に奉仕する心を積極的に養おう
● 他人の身になって考え、理解するようにしよう
● まごころをもって人を赦そう
● 惜しまずに人を助け、人の力になってあげよう
● イエスを生き方の目標にして、私達の力を集中しましょう。

 世の中からつまはじきにされている弱い人のことを真剣に考えているでしょうか。近所の一人暮らしの老人に声をかけたことがありますか。このような例を、いくらでも上げることが出来ます。

(イスラエルの祭司達よ)「あなた達は私の祭壇に汚れたパンをささげておきながら、“我々はどのようにしてあなたを汚しましたかと言う。” ...あなた達が目のつぶれた動物をいけにえとしてささげても悪ではないのか。足が傷ついたり、病気である動物をささげても、悪ではないのか」と万軍の主は言われる」と。(マラキ書1、7-8)私達は、“残り物”を神と人の分に当てる傾向があるのではないでしょうか。私達は、かじりかけのリンゴを友人に上げるでしょうか。知り合いの人に、いたんだお土産をもって行くでしょうか。ところが相手が神と無名の人になると、私達は平気な顔をしてかじりかけたものを差し出します。

 今からの40日の間の歩みを、回心の歩みにしたいと思います。
2004年3月
ベリオン・ルイ神父

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