キリストは重い(No.138)

 この頃日本の殉教者の列福のために運動が盛んになり、ポスターやちらしを配ったり、小冊子を印刷したり、碑を建てたりしています。そのために祈り、巡礼をし、献金するようにと呼び掛けられています。それに対して異議を申し立てるつもりはありませんが、今の教会の状況を考えると、別のところにアクセントをつけた方が必要なのではと思います。それは殉教者に倣って、現在社会の中で、過去において彼ら彼女らがしたようにイエス・キリストと福音を証しするために全力を尽くすことです。そうでなければすべてが記念行事で、身内の自己満足で終りかねないと思います。
 「オフェロ」という人に対する有名な伝説がよく知られています。イエス・キリストを捜し求めていた彼はある仕事に着きました。それは旅人を肩に乗せて河を渡らせることでした。 −すっかり疲れて、ぐっすり眠り込んだある夜、「お父さんのもとに帰りたい」と泣いている少年から起こされて、即、その子を肩に乗せて氾濫していた河を渡ろうとしました。不思議にも少年の目方はだんだん重くなってきて、河の真ん中で二人ともおぼれて死んでしまうところでした。力持ちの「オフェロ」にとって初めての経験でした。少年に向かって「オフェロ」は叫びました。“どうしてこんなにだんだん重くなるの”と。少年は答えました。「お前は世界の創造主、十字架を背負いすべての人々のために命を与えた救い主をおんぶしているからですよ。私はあなたが捜してきたイエス・キリストです。これからはあなたが「キリストフォロ」(キリストを運ぶ者)と呼ばれるでしょう」と。
 以来、抜け目のない商人はその伝説を利用し、「キリストフォロ」を旅人や交通の保護者にし、守り札としてメダイからキーホルダーまで作り、それを売ることにしました。「キリストフォロ」はユーモアをもってそれを見ているか、情けなく思い溜息をつくか、それとも憤慨しているか私にはわかりませんが、その伝説の教訓が忘れられてきたことはほぼ間違いないでしょう。その教訓とは何ですか。
 二五〇年頃、ローマ皇帝デシウスはキリスト教徒を弾圧しました。その迫害の間に多くのキリスト者は殉教しました。キリスト教を熱心に伝えていた「キリストフォロ」も殉教しました。伝説の通り“キリストを運ぶ”こと、すなわちキリストを信じて生き、証しすることは決して“軽い”ことではありません。それはキリストのために氾濫している河(迫害)を渡ること、命を懸けることです。その時のキリストは重い。「キリストフォロ」はそれを貫いたために保護者、道案内人として慕われるようになりました。「キリストフォロ」に関する伝説がよく知られているのにその教訓が忘れかけられているような気がします。
 日本の殉教者に関する話が知られ、彼ら彼女らが列福されることに対して疑問を投げ掛ける意思は毛頭ありませんが、それに留まらず殉教者の模範に倣って、現在社会の中で私たちが生きるべきであることをもっとアピールし、強調してはと思います。その認識が薄ければ私たちは“重いキリストを運ぶ”ことを避け、美化された過去へ逃避しかねないからです。
 現在社会の中でイエス・キリストを証ししようとすれば、キリストは“重い”ことがよくわかります。イエスを選び、イエスを証しする(運ぶ)ことは −今の日本では命までとは言わないが− 様々なことを犠牲にすることを要求しています。
 私たちはどこまでそれを意識し、それに挑む意思を養い、実行しようと心掛けているでしょうか。
2007年2月号
ベリオン・ルイ神父

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