呼び掛ける神に答えて(司祭の召命)(No.148)
今年も11月3日(土)福岡の大神学校で召命の集いが行われます。それを機会にして司祭の召命について皆さんとご一緒に少し考えてみたいと思います。 皆さんもご承知の通り司祭も“こうのとり”によって運ばれて、現われて来るものではありません。皆さんの家庭、私たちの共同体から生まれるものです。今多くの司祭が高齢に達したり少なくなったりしていることに対して、皆さんは関心を持っておられるでしょうか。その関心の度合いはある意味で自分の信仰の状態を反映していることに気付いたことがあるでしょうか。“司祭がいなくなったら誰が自分の葬式を行うのか”と心配そうにおっしゃった方の声が私の耳に残っています。冗談のつもりで言われただろうと前向きに解釈しましたが……どうして司祭になろうとする若者は少ないのでしょうか。神はもう人を呼ばないということは考えにくいことですから、問題があるとすれば、それは答える側にあるということになります。時々耳にする言葉ですが“司祭にもっと魅力があれば若者がその道を選ぶのでは”と。もちろん私たち司祭が若者の憧れの的になることは望ましいことでしょうが、その単純な理由だけで若者は司祭になることをためらっているのでしょうか。少子化、家庭環境の変化、社会やメディアの影響の方がはるかに妨げになっているのではないでしょうか。確かに教会には徹底した分析と未来に対する明瞭な展望が求められているのですが、いずれにしてもここで二、三のことを確認させていただきたいと思います。まず今も神は司祭になるために人を呼んでいます。なぜなら司祭になしにキリストの教会は成り立たないからです。司祭とはどんな人ですか。神の言葉を伝え、その言葉によって集められた人々が感謝の祭儀を始め、秘跡を通して神の命に養われ、支えられ、赦され、派遣されるために、イエス・キリストとその教会に一生を捧げて生きる人です。その理想に近づけば近づく程、その司祭を通して神は後継者を呼ぶことが出来るでしょう。 司祭である私は、自分の言葉と生き方を通して、イエス・キリストと教会のために一生を捧げることは意義のある素晴らしいことだと証明することが出来れば、きっとその私を通してでも神は、人を呼ぶことが出来るでしょう。反省を踏まえた上で、それをもっと認識して若者に声を掛けながら引き続き与えられた使命に相応しく生きるように励んでみたいと思います。 しかし同時に神は今も皆さんの家庭を通して司祭になるために人を呼んでいることに目を留めていただきたいと思います。たとえ、たまには例外があったとしても、普段司祭は皆さんの家庭から生まれるものです。司祭の誕生を他人の問題として見るのではなく、自分の家庭、家族から司祭が生まれるように考えてはいかがでしょうか。家で自分の子供、孫にそれについて話し、考えさせ又、そのために祈ることは何より大切なことです。 更に共同体の中で“どうして教会にとって司祭が必要なのか”“どんな司祭が教会に望ましいか”と、神の言葉や教会の教えに基づいて考え、話し合い、祈ることにもっと力を入れる必要があるのではないでしょうか。
時代によって司祭の姿と有り方が変わり得るのですがキリストの教会にとってその存在はどうしても必要です。今日も司祭を通して、家庭を通して、共同体を通して神は司祭になるために人を呼び掛けようとしているのですが、私たちの協力が足りないために神の声は聞き取れなくなっているのではないでしょうか。
最後に人生の岐路に立っている若者よ、“今神は私を呼んでいるのでは”と、そのことについてあなたも真剣に考えてはいかがでしょうか。
2007年11月号
ベリオン・ルイ神父
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