結婚(No.153)

結婚式が多い豊かな季節である春を迎えたことを機会にして、結婚を目指している方そのご家族、そして共同体の皆さんとご一緒に結婚について少し考えてみたいと思います。
離婚で終わらない結婚はまるで有り得ないような時代を迎えているような気さえしています。
以前のように一度結婚をすれば一生夫・妻に仕えるためにどんなことがあっても忠実に生きるという事は拒否されているかの様に見える時代です。“バツ1・バツ2”と離婚は笑い話の種にさえなってしまいます。
物質的に恵まれている国こそ山火事が恐ろしい速度で広がっていくように離婚率がどんどん高くなる原因は一体どこにあるのでしょうか。
性の解放や女性の解放という考え方は現在の社会に広く浸透し、現代人の結婚観を始め結婚生活様式さえかわってきたとよく説明されています。まるで子供が玩具と遊ぶのに飽きてその玩具を捨てるように一度結ばれた者はいかにも簡単に別れてしまいます。
ところが“信者”の中でもその傾向が見られるのはどうしてでしょうか。その一つの理由は結婚を目指す時に信仰の位置と大切さが軽んじられているからではないかと思います。
永遠の愛なる神に対して無関心である事がごく当たり前の事になれば欠点や弱点の多い男性と女性に忍耐や忠実を求める事は無理な注文かもしれません。その様な雰囲気の中で結婚に関する教会の教えを伝えようとすると全く時代遅れ、現実とかけ離れたものとしてしか見られないでしょう。
信仰という基礎なしに夫婦の一致の意味が通じ合わなくなり、その必要性も感じなくなってしまいます。神を中心にした夫婦生活を送る事を止めれば当然のように自分だけを中心にして考え行動してしまいます。“信者”であろうと社会の風潮に流されてしまいます。
結ばれた絆が断ち切られる、それは夫婦の運命でしょうか、イエスキリストを信じる者にとって勿論そうではありません。だから教会で結婚するに当たって信仰をどの位置に置くか、相手の方は信者でなければ“信仰を省いて”結婚に臨む事が良いのか、などのことについて真剣に考える事は最も大切な事だと思います。結婚は二人の愛情に基づいた契りですがその愛はどのように理解されているか、二人とも同じように愛を理解しているかを確かめる必要があるように思います。
感情だけの愛だったらわらの様にたとえ激しく燃え上がったとしても試練に遭えばその“愛”が冷めて灰になりかねません。愛し合う事は何を意味しているか、その事について二人でよく話し合うように心掛けなければ後に幻滅の悲哀を味わうようになるかもしれません。
愛の泉と源である神、呼び名は何であれこの深い関わり合い無しに夫婦として愛し合い続けることはきっと難しい事でしょう。
2008年4月号
ベリオン・ルイ神父

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