「イエス・キリスト」の共同体として(No.159)

創設60周年を迎えた私達の共同体は、10月19日に20回目の聖家族の集いを行います。
 それを契機にしてこの八幡の地で何の為に私達の共同体が存在しているのかという事について少し考えてみたいと思います。
黒崎教会を知っている近所の方々の目には私達はどのように映っているのでしょうか。アンケートをとった事がない為知る術がありませんが看板を見ている多くの人は漠然と、私達はキリスト教という「宗教」の信者である事ぐらいは分かっているでしょう。ところが「宗教」として見られ、片付けられる事はイエス・キリストを信じる私達にとってハンディキャップ・妨げに成りかねないと思います。「宗教」はどのように理解されるかによって。
 勿論、例外もあるでしょうが「宗教」を自分たちの問題を解決する為の手段と見做、あるいは奇跡的な癒しや超能力を手に入れる為の手段として「宗教」に入り、お守りの意味で冠婚葬祭を求め、環境と気分によって左右されて「宗教」と関わり合う人が大半のように見えます。
しかし、それらは全て人間が「宗教」を自らの願望や欲望を実現する為の道具にしているからでしょう。健康や繁栄、合格や交通安全、心の平安と慰めを願い求める事は間違いではなく「宗教」の否定でもありません。それらは全て善いものであり、恵みとして人間に与えられるものです。
しかし、問題はそれらを得たいと願う人間が自らを中心に据えて「宗教」をそれらを手に入れる為の手段にしてしまうという事です。こうした人間中心主義は「宗教」を歪曲してしまいます。イエス・キリストへの信仰の事を考えると尚更のことです。
だからこそ、何のために私達の共同体は存在しているのかを考える必要があると思います。私達の共同体は人間に相応しい生き方の泉である神の位置の回復を目指すように心掛けなければならないと思います。すなわち人間中心の、自己中心から神中心の生活、自らの意思と欲望ではなく、神の意思、神の望みに従って生きる生活へと変えるように努めなければなりません。それは常に神の御旨を全うするように心掛けたイエス・キリストに倣って生きる事です。
身内だけで宗教的な行事をこなすために私達の共同体は誕生したのではありません。イエスと福音を告げ知らせ、証しする事は私達の共同体の最高の使命です。その為に私達はイエスに呼び集められ派遣されています。
「パウロ年」に当ってパウロの次の言葉を肝に銘じてその言葉を常に黙想するように心掛ける必要があると思います。「私が福音を告げ知らせてもそれは私の誇りになりません。そうせずにはいられないからです。福音を告げ知らせないなら私は不幸です」と。(コリントの信徒への手紙1_9_16)福音、良い知らせとは何ですか。一言で言えば「独り子をお与えになった程に神は世を愛された」(ヨハネ3_16)という事です。
福音を告げ知らせる事は二つの事を求めています。口でイエスのことを伝える事、そして人の目に移る行動をもっと抽象的に聞こえる神の愛と憐れみに“骨と肉”を付けつまり証しする事です。神はイエスの内に“骨と肉”になったように。
イエスのように私達はそれが出来ないでしょう。パウロを真似する事も出来ないかもしれません。しかし、彼等に見習う事は出来るはずです。
その努力を惜しまなければきっと私達の共同体は単に「宗教」としてだけではなく、福音に生きる共同体として回りの人々の目に映る事になるでしょう。
今からの私達の共同体は一層その理想に向かって歩む共同体となるように心から祈ります。
2008年10月号
ベリオン・ルイ神父

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