聖体の年にあたって(No.117)
4月号の“一言”の中で、“不思議な団体”である教会についてお話しましたが、今月はその共同体の生活の「泉と頂点」である聖体について“一言”を書きたいと思います。
皆さんもご存知のように、全世界の教会のために、今年は「聖体の年」と定められました。又、5月29日に私たちは「キリストの聖体」の主日を迎えています。それを契機にして、「聖体」に対する理解を深めてはと思います。もちろんすでに皆さんもよくご存知のことと思いますが、場合によって確認することは無駄なことではありません。聖木曜日、最後の晩餐の記念の感謝の祭儀においてお話ししたことを中心に話をすすめたいと思います。
イエスの一生において、もっともドラマチックな時が来ていました。ご自身が“選び”、“友”にした人たちから引き離される時でした。当然のようにその時、イエスの口から出る言葉、イエスが見せる態度は、今までにない計り知れない重みを持っています。それを通してイエスはご自身の一生の使命の本質を残し、弟子たちの頭と心にそれを深く刻もうとしました。マタイ・マルコ・ルカによる福音書が、最後の晩餐の席でのイエスによる「聖体の制定」の話を書き残しましたが、それはすでに教会の中でよく知られていたからでしょうが、ずっと後で書かれた福音書の中で、ヨハネはその歴史的なことよりも、それが意味していることを強調するために、他の福音書に記録されなかった“弟子たちの足を洗うイエス”のエピソードをはさみました。
* イエスは、人間の姿で現れた神であり、神の子であるにもかかわらず、人類を救うために奴隷の状態にまで遜りました。そして、「私があなた方にした通り、あなた方もするようにと模範を示したのである」(ヨハネ13.15)とおっしゃいました。
― 人は、よく神の御前でひざまずくのですが、イエスのうちに神は人の前でひざまずいたことの意味を、どこまで私たちは理解しているでしょうか。
― 人は目を見上げて神を見ようとしているのですが、イエスを通して人の足を洗う神を見るためには目を下へ向けなければならないことを、どこまで私たちは認識しているでしょうか。
― 「仕える神」。―
* ヨハネは、最後の晩餐における「聖体の制定」に直接に触れなかった理由がもう一つあります。それは、ヨハネがすでに6章の中で聖体の意味について長く説明をしたからです。数千人の人々を満腹させた後、イエスは、人を満たすのはご自身であることをおっしゃっています。その時にイエスは、ご自分を食べるようにと切に求めています。興味深いことですが、その時にヨハネは普通の意味での“食べる”という言葉を使っていません。いくぶん低俗な響きを持った言葉、「餌を食べる動物」に使われていた言葉を使っています。「かじる、音をたてて食べる」を意味している言葉です。
それを通してイエスは、“よく消化するために”“よく味わうために”ご自身をゆっくりと“かむ”ことを求めています。いっぺんに飲み込むこととは違います。それによってイエスは私たちの糧となり、私たちはイエスによって養われ、イエスと一致し、イエスの命で生きることが出来ます。私たちの糧になることによって、イエスは、まさに私たちに“仕えよう”としています。イエスを“食べる”ということは、イエスの言葉と生き方を理解し、イエスと一致し、つまり仕える精神で生きることを意味しています。イエスを糧にして、よく消化し、味わおうとすれば、本当にイエスと一致し、イエスに倣って仕える精神に生きることが出来るはずです。ヨハネが暗示しているように、「聖体拝領」と「仕える精神」を切り離して考えれば、いくら聖体を拝領したとしても、イエスとの本当の意味での一致は実現しませんし、他の人との一致も生まれてきません。ただパンをいただいたことで終わってしまいます。
私たちの共同体は感謝のうちに仕える精神に生き、イエスの命に養われ、一致を目指す共同体となることを心から祈ります。
2005年5月号
ベリオン・ルイ神父
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