キリストとの出会いに間に合いたい(No.126)

 マタイによる占星術の学者(マゴイ)の物語は(マタイ2.1−12)、つい最近(1月8日)教会で読まれましたが、その物語を基にして後に書かれた話がたくさんあることを皆さんもご存知の通りです。きっと皆さんも次の話を読んだことがあるでしょう。(「もう一人の博士」アンリ−バンダイク。「ANOTHER WISE MAN」)
 〜実は「マゴイ」は三人ではなく四人だったという。
 四人目は出発の時に間に合わなかったのです。遅れた彼は、後から急いで追いかけて行きましたが、あの案内の星は消えてしまっていたし、途中、道に迷ったりなどして、仲間に会えませんでした。様々な苦労のあげく、やっとベツレヘムに到着したものの、後の祭りでした。祭りどころか、そこはもはや涙の谷と言った方がいい町でした。というのは、ヘロデ王が二才以下の赤ん坊を皆殺しにしたばかりでした。がっかりした彼は、それでもイエス、マリアとヨゼフがエジプト方面へ逃げたと聞いて、広い寂しい砂漠を歩き回ってみたのですが、無駄な骨折りでした。 − 国に戻った彼は、また天文学に首をつっこんでいったのですが、「私の見た星は空想なんかじゃなかったのだよ」と口癖のように言いながら、いつまでも忘れられませんでした。・・・やがて年月が移り、彼もはげ頭と、ひざまでもの白い髭との年寄りになりました。突然ある日、妙な噂を耳にしました。大工ナザレのイエスという人に関する噂でした。「この人だ!」。隊商の一行に加わり、彼はエルサレムへやって来ました。都は祭りのように賑やかでしたが、それは憎しみに濁された騒ぎでした。金曜日の午前十一時でした。野次馬に押し流されて十字路に立った時、ちょうどイエスが苦しそうに十字架に押しつぶされるように倒れたところでした。彼は道に飛び出して、「主よ、赦して下さい。私はまたも遅れを取りました。今日ももはや遅すぎました。」と言いました。イエスは彼をじっと見つめて、「遅すぎることはない。」と答えました。〜
 その後、物語は続きますし、物語が教訓としていることは今からの話とは違いますが、私が抜粋した箇所に基づいて、次のことを考えていただきたいと思います。イエスの誕生を祝う典礼に間に合わなかったとすれば、イエスの死と復活を記念する典礼に間に合うように遅くはないということです。12月25日から4月16日までの典礼が一環しているから、まだ間に合います。遅すぎるのではありません。今からの時間さえ大切にすれば。四旬節に入るのは、3月1日灰の水曜日からですが、2月の間に、神の声に耳を傾け、イエスに出会うように心掛ければ、遅く出発したとしても間に合います。「典礼」という言葉を通して、私たち一人ひとりの人生についても話していることが、皆さんもおわかりになったことでしょう。
ところが、遅すぎる時、間に間に合わない時があることを忘れてはなりません。それは、死んでからのことです。死んでからでは、いくら高い金額を払ったとしても、いくら盛大に派手に葬儀を執り行ったとしても、いくら大群衆が揃ったとしても、何の役にも立ちません。
* 尚、病を患っている時、たとえそれは死に至る病気でなくても、是非赦しといやし、聖体の秘跡を通してのキリストとの出会いを遅らせないようにと切にお願い致します。
2006年2月号
ベリオン・ルイ神父

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