「絆」と「商い」(No.147)

秋になると、多くの小教区で「バザー」が行われ、その準備のために時間とエネルギーがかなり使われています。場合によって「バザー」は小教区の一年間のうちの中心的な行事となっているようです。派手に又は地味に行われるその催しに対して、見方が様々です。それに賛成する方がおられれば、反対する方もおられます。
日本に来て初めて「バサー」に関する話を聞いた時に驚いたことを覚えています。それは同じ「バザー」という言葉が国によって同じことを連想させるのではないからです。この言葉は元々ペルシア語で、現在のイランの言葉です。単に「市場」を意味しています。ヨーロッパの国々に伝わったその言葉は市場の他に、フランスでは“乱雑”“めちゃめちゃ”と意味するようになり、イギリスやアメリカでは社会事業などの資金を集める目的で催す慈善市場を指すために使われました。日本の教会での「バザー」はもっぱら慈善事業を指すために使われているようです。“しかし趣旨がそうだとしても「バザー」は一種の市場だから教会の中でそれを催すは望ましくない”と思う方がおられます。目的は何であろうと商いと信仰は水と油のように決して交り合うことはありません。確かに金銭的な成果を収めることは隠された本音と成りかねません。「バザー」そのものの催しが金銭的な関係で済むのなら、たとえ利益を上げたとしても、たとえ皆満足したとしても実は的をはずしてしまうのかもしれません。「バザー」を開くことに当って、教会共同体は売る側と買う側に分かれ、一方はなるべく高く売ろうと考え、もう一方は安く手に入れようと当てにしてしまいます。“しかしいい目的のためにそれによって双方が得をするのであればそれでいいのではないか”と思う方もおられるでしょう。だがそうなれば教会での「バザー」は只単に“商売”に成りかねません。その“商売”が悪いとは言っていませんが教会はわざわざそれに携わる必要があるのかという疑問が浮かんできてもおかしくありません。
黒崎教会では「バザー」がありません。あるのは聖家族の集いです。確かにその間に食事を始め、様々なものが販売されるのですが、目的はお金を集めることではありません。利益があればそれを献金しようということだけです。目的は共同体の祝いです。それを機会にして私たちは様々な形で協力することによって奉仕する心を養い、楽しく参加することによって共同体に対する意識を高め、喜びと親しみのうちに結ばれるように心掛ければ、共同体の交わりがより一層深まります。
だから10月21日は、たとえ忙しくても我が家へとすぐに足を運ばず、どうか皆さん兄弟と共にひとときを過ごすようにとお勧めしたいと思います。その日の交わりを感謝の祭儀をもって迎えます。その間に幼児洗礼式を行う予定です。引き続きコンサートを楽しみ、その後食事を共に味わいたいと思います。子供から年長者まで一つの家族として、聖家族、イエス・キリストの家族に相応しく絆を結び、共にゆったりした時間を過ごすことが出来るように是非都合を付けることを心からお願い致します。
2007年10月号
ベリオン・ルイ神父

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