宗教嫌い?(2)(No.119)
“贈り物”とそれを“包装”しているものを、同一のものとして見ることは賢明なことでしょうか。
その疑問に対する答えは人によって違うでしょうが、せめて議論の余地があることを認めていただければと思います。
イエスの弟子たちの頭には、新しい「宗教」を作るという考えは毛頭なかったようです。メシアであるイエスを信じることによって、イスラエルの信仰は完成を迎えたと考えたようです。ところがイエスの福音がもたらしてきた“新しさ”のために、誕生したばかりのイエスの共同体は、様々で、大きな問題にぶつかり、危機にまで直面しました。(使徒言行録15.1−2)泉の水が涸れるように、ユダヤ教から新しい共同体に入る人の人数が減ってしまったのはその一つです。次第に様々な反対に会い、特にユダヤ教から正式に排斥された時(−世紀の終り−ヨハネ9.22)、イエスの弟子たちはある意味で仕方なく自分たちのグループを組織し、“キリスト教”という「宗教」は誕生しました。その勢いで、時と共に様々な文化の中で、教会は明白に独特な宗教団体となり、組織を固め、教義を定め、法律を決め、儀式も固定されてきました。
−言うまでもありませんが、今の“要約”は単純過ぎて、“キリスト教”という「宗教」の歴史を忠実に正確に反映しているとは思っていませんが、どうして時と場合によってイエスの姿がかすみ、福音の本来の光が「升の下に置かれ」(マタイ5.15)隠されたか、どうして二千年の歴史の間、時には「光」が「陰」に汚染されたかという一つの要因は、そこにあることを否定することが出来ないと思います。
教会は人間の世界でもあるから、きっとそれを避けることが不可能なことだったでしょうし、確かに教会には組織も教義も法律も儀式も必要です。しかし、どうして、何のためにそれが存在しているか、その目的は何なのか、それを忘れないように心掛けることは、非常に大切なことです。いくらイエスの名を借りても、いくらイエスの名において振舞っても、イエスを模範にしてイエスに倣って生きていこうとしなければ、人の目にはイエスの姿が映らないでしょうし、イエス-キリストへの信仰の呼びかけにもならないでしょう。
“贈り物”とそれを“包装”しているものを混同することは適切なことでしょうか。
時々思うのですが、私たちは肝に銘じてもっとイエスの次の言葉に耳を傾けなければなりません。
「イザヤはあなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。“この民は口先では私を敬うが、その心は私から遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしく私をあがめる。”(イザヤ29.13)あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである」と。(マルコ7.6−9)
掛け替えのない“贈り物”であるイエスと福音を中心にして考え行動すると、初めてその“包装紙”である“キリスト教”という「宗教」はそれに相応しいものになると確信しています。しつこいようですが、私は西欧の「宗教」を広めるために司祭になり、日本まで来たのではありません。飽くまでも、イエス-キリストと福音を伝え、証しするためです。
―天気の悪い朝の目覚めが生んだ独り言でしょうか…。
2005年7月号
ベリオン・ルイ神父
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