我が道を行く(No.137)

 私は「MY WAY」という曲を好んで歌います。もともとフランスの詩人が作詞した歌で、PAUL ANKA(ポール・アンカ)、FRANK SINATRA(フランク・シナトラ)という有名なアメリカ人歌手に歌われたため、その英語版は全世界に広まりました。「MY WAY」という歌は“我がまま”“気まぐれ”“勝手”を賞賛しているのではありません。責任を持って自由に生きる、つまり勇気と誇りを持って、人間として相応しく生きることの大切さを歌っています。
 2007年を迎えて「我が道を行く」ことについて考えてみてはいかがでしょうか。
 
 しかし私たちキリスト者にとって「我が道を行く」ということは何を意味しているでしょうか。
 
 “生きるにあたって、どの道を選べばいいのか。”“この道を選ぶことが正しいのか。”就職、結婚、学校、受洗など、人生の岐路に立った時、きっと皆さんもこのような迷いに直面したことがあるでしょう。それを避けることができません。これらの道の選択は、自分の自由意志に基づくものですが、同時にその自由にはかなりの限界があることを時には思い知らされます。私たちにとって、どうしようもないことが多くあることは確かです。生まれた環境、置かれている状況、自分の可能性、おそいかかる病気や不幸など。自由に生きるということは、実現出来ない夢のように目に映ることがしばしばです。
 それにしても、私たちの自由意志による決断の出来る範囲が狭いと決め付けてはならないと思います。人生の大きな岐路に立つ機会はそれ程多くはありませんが、小さな交差点は日常茶飯事的に存在しています。フランスには次のことわざがあります。「一生の中で英雄になれるチャンスは稀だが、卑劣漢になる危険性は毎日何回もある」と。きっと今年も小さな岐路、私たちの自由意志の働きを求める選択は度々訪れるでしょう。その時に、イエスの次の言葉を静かに黙想するように勧めたいと思います。「ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。ごく小さなことに不忠実な者は、大きなことにも不忠実である」と。(ルカ16.10) キリストの者となった私たちにとって、きっと今年もYESかNOかとの間に度々選ぶ必要が現われて来るでしょう。イエスにYESかNOか。イエスを信じる私たちにとって、「我が道を行く」ということは、自分の自由意志でイエスの道を歩むことを意味していると思います。責任を持って、勇気を持って、誇りを持って。
 私たち一人ひとり、そして私たちの共同体は、イエスの道を歩むことによって日々出会っている人々のために、イエスへの道案内となることが出来ますように切に祈りたいと思います。
 皆さんが良い年を迎え過ごすことが出来ますように、心から神の豊かな祝福を祈ります。
2007年1月号
ベリオン・ルイ神父

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