結婚?(No.154)

4月号の「ひと言」を次のように結んでいました。「愛の泉と源である神_呼び名は何であれ_との深い関わり合いなしに夫婦として愛し合い続けることはきっと難しいことでしょう」と。
不倫を美化しているメディア、離婚率が高い社会の中で夫婦として忠実に生き夫婦の一致を保つことは容易な事ではありません。
しかし、そもそもどうして神は夫婦に忠実を守り一致を保つことを求めておられるのでしょうか。それは愛なる神が男と女を「ご自分にかたどって創造し」(創世記1.27)「女を男のところへ連れて行き」(創世記2.22)_お見合いし_二人の幸せ(創世記2.23.22)の仲人として振舞ったからだと聖書は物語風に説明しています。ずけずけ言えば男と女は単に雄と雌だけではなく、愛し合う事は交尾で終わってしまうのではないということです。
掛け替えのない存在である男と女との間に愛が芽生えると契りが結ばれ、生まれた愛が尊敬、信頼、自由と責任の内に成長し、夫婦が常に一致を目指すこと、それは神が望んでおられることです。男と女が幸せであること、それは神の夢です。更に聖書によると夫婦の愛と一致は神と人類との間の愛と一致を反映し、パウロによると夫婦の愛と一致はイエスキリストと教会との間の愛と一致を表しています。高い(高過ぎる?)理想でしょうが幸せな夫婦生活を送っている方々は神が希望し目指してもらいたいとその理想を納得しているのではないでしょうか。神は人類を愛し、イエスは教会を愛した。そして今も愛しているように男と女は夫婦となってその一致を愛によって築き上げ、愛によって完成するようにと呼び掛けられています。男と女はお互いに愛し合う事を約束して、自由に結ばれた以上その約束を守るように尽くす事はごく当然の事です。その努力こそはお互いの愛のしるしです。このように教会の中で理解された結婚は7つの秘跡の一つになりました。
ところが教会の影響が強かった時代“キリスト教的な社会”!という環境の中で発展したその見解を現在社会の中で貫く事は可能な事でしょうか。
先程結婚は秘跡の一つになったと書きましたが普段秘跡は司教や仔細によって授けられています。ところが結婚の場合は違います。男と女は誓約を交わす事によってお互いにその秘跡を与え合います。しかし秘跡は魔法の世界ではないので演じるだけで、すなわち男と女は信仰の内に結ばれなければ結婚は秘跡にはなりません。たとえ赤ちゃん時に洗礼を受けたとしても、信仰と殆んど関係なしに成長した男と女は“自動的”に秘跡となる結婚を結ぶ事が出来るはずはありません。又、一方は“信者”でもう一方はそうではないとすれば状態は尚更複雑になります。
多様な社会における結婚をどの様に考えれば良いのか。教会はその課題と真剣に取り組もうとしているでしょうか。
いずれにしても信仰の状態はどうであれ、信仰があるかないかにせよ幸せな結婚生活と円満な夫婦の一致を目指す事は多くの夫婦が証明しているように可能な事なのです。
私の経験では愛し合っている二人に関する教会の素晴らしい教えを紹介する時にいつもと言っていい程好意的な反応が見られます。勿論夫婦の関わり合い、結婚生活とは何かそれに対して基礎となる共通理解が必要です。それが不足すれば試練が訪れた場合、溝が出来ひびが入り、壁が出来上がり夫婦の一致への道が塞がれかねません。
その基礎は〃信仰を分かち合う事であれば大いに役に立つと思いますが、底まで行かないにしても神が人の心に注いでくださる愛に基づいた関わり合いを目指そうとすれば夫婦は神が約束された幸せを味わう事が出来るに違いありません。
神が示された理想を実現する事は簡単な事だとは思いません。時には愛し合う事は犠牲を伴いますが試練を乗り越え辛抱強くお互いの愛を完成させる為に努めれば愛の勝利は可能になります。忠実を守り夫婦の一致を保つ為の努力は神が約束されている幸せに導く道として考えてみてはと思います。それに愛なる神は必ず手を差し伸べている事を忘れないように心掛ければ、夫婦は共に愛の道を歩み続ける事が出来るでしょう。
2008年5月号
ベリオン・ルイ神父

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