本物を求めて(No.150)

皆さん明けましておめでとうございます。
今年黒崎教会は創設60周年を迎えます。60年前私は7才でした。
“将来ぼくは宣教師になる”と親に言った年だそうです。時間が経つのは何と早いことか!
過去を振り返り、新しい年を迎えるに当って、ますます大切だと思うことが一つあります。
それは「本物」を求めて生きることです。
輝いている石がすべてダイヤモンドではありません。にせものが溢れ、不祥事の多いこの世の中で
濁った水の流れに溺れないために常に「本物」を求め続けることに心掛けなければならないと思います。
もちろん「本物」を求めなくても生きることが出来ます。しかし「本物」を求めないで生きる人は不発に終わる花火に似ているような気がします。野球を始め、スポーツの世界でさえスカウトがおり、将来の“本物の選手”になる人を必死に捜しているのではないでしょうか。
時に絵画を売買する人たちの世界において衝撃的な知らせは波紋を投じています。以前専門家が“本物”だと定めていた作品が実は偽物だったと判明されます。天才的な人は場合によって専門家さえ騙すことができます。すなわち「本物」を求めてそれを捜すに当り、賢明な判断が要求されるということです。その判断の基準は縛られるか開放されるかだと思います。偽物は人を縛り、度々破滅へ導いて行きます。お金や権力などを「本物」として見做している人はよくその罠に陥ってしまいます。
「本物」は逆にそのようなことから人を解放し、自由にします。
* 捜し求めたあげく、賢明に判断した上で私たちは道・真・理・命であるイエスが「本物」であることを信じるようになりました。しかし皆さんもご存知の通り、演奏されたことのない楽譜のように信仰を口先で宣言しただけではどうにもなりません。
◎道であるイエスは世界の複雑な状況、社会の予想外の変化、私たちが直面している出来事の中で日々出会っている人々を通して、私たちを案内しようとしています。その道を捜し求め、そしてその道を勇気をもって辛抱強く歩くために要求される努力に対して、外方を向かないように心掛けましょう。
◎ 真理であるイエスの言葉と生き方に基づいて判断し、偽りとごまかしを自分に許さず、生活している場、家庭、学校、職場、地域社会で真理に相応しく行動するように心掛けましょう。
◎ 命であるイエスの内にイエスと共に生きることに常に注意を払いましょう。それを心掛けなければ偽物の輝きに魅せられてきっと「本物」を見失ってしまうでしょう。博物館や画廊で絵画、宝石、展示品などに人は触ることができず、また盗難にあわない
ために安全装置が設置されています。それは一つの例えに過ぎないのですが社会の中で吹いている様々な風に倒されないため、「本物」を見失わないために安全装置である、祈ること、神の言葉に縋ること、秘跡を受けること、すなわちイエスの命で生きる
ように心掛けましょう。
* 「本物」を求めて生きること、道であり真理であり命であるイエスの後について行くことは楽なことではありませんが、しかしそのおかげで真の喜びを味わうことができるとイエスは約束されました。
『畑に宝を見つけた人、捜していた高価な真珠を見つけた商人は喜びの内に持ち物をすっかり売り払ってそれを買う』と。200801.htm(マタイによる福音13章44節〜46節)
皆さんもこの新しい一年の間「本物」を求めて、その喜びを味わうことができるように心からお祈り致します。
2008年1月号
ベリオン・ルイ神父

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