愛なる父に身を委ねて(No.113)

 皆さん、新年あけましておめでとうございます。
2004年が終り、2005年にはいりました。古い衣類、古い靴などを捨てる時、“ずいぶんお世話になったな”という気持ちで手離したとしても、新しい物がすぐ古い物を忘れさせてしまいます。しかし、古い年は古い着物と違って、完全に消えるのではありません。前の年に色々なことを経験し、平凡な一年間にも印象に残った日や出来事があって、私たちは知らず知らずのうちにそれによって影響を受け、多少変わってきました。「見ざる聞かざる言わざる」のお猿さんなら、過ぎ去った一年で全然変わりがなかったでしょうが、過ぎてしまったこの古い年は、否応なしに私たちの身についてしまったのです。同じようにこの新しい年も、私たちの身についてしまうでしょう。その途中で、自分で行なった出来事があれば、神しか知らない想像以外の問題も起こり、そこで私たちは試練に遭うかもしれません。競馬場、競輪場、ボートレースで賭けをすると、勝ちか負けかはっきりとしますが、時の流れとそれに伴う喜びと悲しみ、成功や失敗、幸福や禍は、賭けではありません。時の使い方、事の受けとめ方によって、そのどちらでも得になる可能性があれば、そのどちらも損になる可能性もあります。たとえ私たちはすべての面において自分の思うままに物事を運ぶことが出来ないにしても、私たちは盲目的な運命の操り人形になっているのではありません。
 今年の初めに、イエスの次の言葉を心の中で深く刻みたいと思います。「思い悩むな...空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だがあなたがたの王の父は鳥を養ってくださる。あなた方は鳥よりもはるかに価値あるものではないか。」と。(マタイ6.25−26)思い悩む理由は、私たちにはいくらでもあります。今年も思いがけないことのために、その理由が増えるかもしれません。しかし、そのために落ち込み、失望するどころか、それを父なる神にもっと身を委ねるチャンスにしてはいかがでしょうか。それは決して逃げること、あきらめることを意味しているのではありません。それは父なる神が、ご自分の腕の中で私たちを抱き、ご自分の胸のぬくもりで私たちを包みたいことを意識することです。それは自分に要求される努力を怠ることを意味しているのではありません。それは父なる神の手を強く握れば、私たちの足取りが軽快になり、私たちの歩き方はもっとしっかりしたものになることを意識することです。
 マタイによる福音書の中で慰めとなる頼もしい言葉があります。「疲れた者、重荷を負う者は誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよ。私の軛を負い、私に学びなさい。そうすればあなた方は安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」と。(マタイ11.28−30) 私たちが悩み、苦しみ、病気を患い、不幸に会うことを免れ、辛い思いをかならず避けることが出来ることを、イエスは約束したわけではありません。ただそれを共に背負うことをイエスは約束しました。イエスは軛の、最も重い部分を背負うから、私たちの負担が軽くなります。そこまで父なる神は慈しみと思いやりをもって、私たちと共におられることを切望しています。しかし神は決してご自分の存在を押しつけようとしません。「見よ。私は戸口に立ってたたいている。誰か私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう。」と。(黙示録3.20) 戸を壊してまで、神は勝手に私たちの中に入るのではありません。迎えられ、そして交わりの最高のしるしである食事を私たちと共に分かち合うことが出来ることを信じて、神は辛抱強く私たちの招待を待っています。それはナザレのイエスを通して私たちに告げ知らされた愛なる父なる神です。
 皆さんもご存知のように、2004年10月から始まった「聖体の年」は2005年10月まで続きます。神との交わりの最高のしるしであるその食事に参加することによって、愛なる父に見を委ねる決意を養うようにしてはいかがでしょうか。
皆さん今年もよろしくお願い致します。
2005年1月号
ベリオン・ルイ神父

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