見張りの使命(No.121)

 2005年の平和旬間にあたって日本司教団が発表した「戦後60年平和メッセージ」のサブ・テーマは、“今こそ預言者としての役割を”となっています。そして、メッセージの中で、戦後50年に司教団が「平和への決意」の中で書いた文章は再び引用されました。“戦前から戦中にかけて、日本のカトリック教会が尊い命を守るために、神のみ心にそって果たさなければならない預言者的な役割についての適切な認識に欠けていたことを認め、神と戦争によって苦しみを受けた多くの人々に対して赦しを願います”と。その預言者的な役割を、聖書が好んで「見張りの使命」と呼んでいます。
 私はヨーロッパ人だからでしょうか、よくわかりませんが、ナチスの台頭していた時代を強く意識しています。彼らの狂気の人種政策は、まず、どうしてもこの世から消さなければならない人種、ユダヤ人を対象として始められました。
 −私はユダヤ人ではないので、私には関係ないと自分自身に言い聞かせて黙っていました。次にナチスの手にかかったのは黒人でした。
 −私は黒人ではないので、ここでも自分には関係ないと言い聞かせて黙っていました。次に狩りの対象にされてしまったのはジプシーや同性愛の人々でした。
 −幸いなことに、私はジプシーでもなく、同性愛者でもないので、またしても自分には関係ないと言い聞かせて黙っていました。
 ところがある日、軍靴の音が私の家の前で止まり、“お前は非協力者、非国民だ”と言われ、連れて行かれてしまいました。イソップ物語のような話ですが、第二次世界大戦中にヨーロッパ中、しばしば見られた光景でした。ここで言う「私」とは、赤ん坊だった自分のことではなく、狩られる立場にならないと思い込み、沈黙を守った多くの人々を指しています。当時の社会は異常な状態の中に置かれていたので、一概にこの人を責めようとは思っていませんが、そのような時だったからこそ、イエス−キリストへの信仰の実践が必要だったことを認めるべきです。教会の指導者を含めて、見て見ぬ振りをしてしまった人々が多かったことは事実です。その人々はナチスの横暴を許し、結果的に、間接的に、それに協力してしまったのです。このようなことは人類の歴史の中に何回も繰り返されたことを、皆さんもご存知の通りです。その凄まじい事実から私たちが学び、神の見張りになろうとしているでしょうか。
 「人の子よ、私はあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたが私の口からの言葉を聞いたなら、私の警告を彼らに伝えねばならない」(エゼキエル33.7)とエゼキエルは神に言われました。見張り、歩哨の責任は重大で、仲間を救った場合は自分も救われる可能性がありますが、見張りとしての義務を果たさなかった場合、仲間と同様自分も殺され、助かったとしてもその重大な過失の責任を取らされることになります。「私が悪人に向かって“悪人よ、お前は必ず死なねばならない”と言う時、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任を私はお前の手に求める」(エゼキエル33.8)と神はエゼキエルに注意を与えました。神の目から見て好ましくない行動をする人に対して黙ったり機嫌をとったりすると、その人と同時に、卑怯な人も共倒れすることになります。
 見張り(預言者)は見張りとして生まれるのではありません。見張りは、イエス−キリストへの信仰の内に、人生の体験と神の導きによって目が覚め、他人の目を覚ます使命感を抱いている人です。神から派遣され、侮辱にも嫌がらせにも、殉教にも負けないほどの熱意と愛に満たされた人です。見張りとしての責任を果たさない人は、イエス−キリストへの信仰の上で欠陥者であることを自覚すべきでしょう。
 しょっちゅう眠ってしまう見張りの私は、甘い夢をよく見ているのですが、目覚めは苦しいものになるのかもしれません。
2005年9月号
ベリオン・ルイ神父

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