イエスの復活の記念とは(No.128)

 ある教会での出来事です。その教会で主日のミサの最中にお葬式が行われました。死者の身元は不明でした。おそらく信者であろうと教会でお葬式を引き受けたのでしょう。お葬式は荘厳に行われ、参加者には同情と関心の目。告別の時に司祭は「どうぞ皆さん、そのお顔を見てください。もしかするとご存知の方がおられるかもしれません」と言って、列席の人々は並んでお棺へ進みました。死者の顔が見える窓に屈むと、一様に皆驚いた表情を見せ、その後黙って席に戻りました。
 −実はお棺に遺体は入っていませんでした。死者の顔の位置に鏡が置かれ、覗き込んだ人はそこに自分の顔を見たのでした。その顔は「あなたは生きていますか、それとも死んでいますか」と問い掛けていたかのようでした。
 イエスの復活を記念しようとする私たちも問い掛けられています。あなたの生き方はイエスが生きておられることを表しているかどうか、という問い掛けです。イエスの復活を記念するということは、儀式に参加することだけで終わるのではありません。イエスが生きておられることを信じるとすれば、私たちの生き方はそれを反映するはずです。イエスが死から命へ移ったことは過去のことですが、そのために、イエスは今も生きておられます。過去のことを記念しながら、私たちはイエスが今も生きておられることを証しするように心掛けなければなりません。その証しは記念されていることの意味を照らしているからです。私たちは何を、どのようにして、イエスが生きておられることを証しすることが出来るのでしょうか。それを考えずには今年の復活祭も迎えることが出来ないと思います。「希望に生きる」ということは、イエスが生きておられることへの証しではないでしょうか。確かに、−軍靴の音、文化の対立、感染病の広がり、経済の摩擦、−教会の中での高齢化、司祭不足、旧慣墨守、想像力の乏しさ、−又現在、多くの方が置かれている状態を見ると、不安の材料が山程あり、希望に生きるということは、無謀なかけ、無理な展望であると言われても仕方がないでしょう。しかし、希望なしにイエスは受難に立ち向かうことが出来たのでしょうか。希望なしにイエスは復活の夜明けを迎えることが出来たのでしょうか。パウロを始め、使徒たちの手紙、黙示録を読むとわかるように、様々な困難に会っていた当時のキリスト者は、常に希望に生きるようにと強く勧められていました。その理由はイエスが復活して生きておられるからだ、ということでした。
 ところが私たちは、すでに様々な問題や悩みを抱えているため自分の内に希望の灯が消えかかっているのに、どうして人の前で希望に生きることが出来るのかと疑問に思う方は少なくないでしょう。希望に生きることは、自分の意思の努力によって生まれるものだとすれば、確かに不可能に近いことだと思います。しかし、神から私たちに与えられている希望だから可能になります。その源はイエスの復活です。だからイエスの復活を記念しながら、そのイエスの復活への信仰を新たにし、その内に希望に生きる力をもう一度汲んでみたいと思います。
 皆さん、イエスのご復活おめでとうございます。
2006年4月号
ベリオン・ルイ神父

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