闇から光へ(No.124)

 すっかりイベント化されたクリスマス・シーズンが再びやってきました。年のせいでしょうか、私は町でのクリスマスの人工的な騒ぎの空しさを強く感じ、ますますイエスの誕生の意味の深さを探り、味わいたいものです。
 イエスの誕生を祝う今年の感謝の祭儀の間に、「闇から光へ」というキャッチ・フレーズをもって、私たちの共同体は救い主の到来の意味を深めて行くように誘われています。
 「闇から光へ」。「箱」船に乗ったノアは洪水から“救われました”。「かご」(箱)に入れられたモーセはナイル川から引き上げられ、“救われました”。「契約の(箱)」を担いだ限り、イスラエルの民は敵から神の手によって“救われました”。飼い葉桶(箱)に寝かされたイエスは“救い主”そのものです。後に“神の子羊”と呼ばれたイエスは、生まれたばかりの“子羊”のように飼い葉桶に寝かされ、その後、“子羊”のようにご自分の命を捧げることによって、人類を“救いました”。こうして「闇」の状態に陥っていたイスラエルの中で「光」が射してきました。
 子供の頃、休みの間、大いに楽しみにして田舎のおじいさんとおばあさんの家に行っていました。あばあさんはよく編み物をしていて、時々いたずら心が働き、私はおばあさんの目を盗んで、毛糸を引っ張っていました。とうとうある日、完成しかけていたセーターの半分も解いてしまいました。
 おばあさんから呼ばれ、怒られることを覚悟したところ、おばあさんの言葉に驚きました。“毛糸を引っ張ることがおもしろいでしょうが、見て、今までの私の時間と苦労を無駄にしてしまったのではないでしょうか。自分のわがままのために、ものを作ったどころかこわしてしまったのではないでしょうか”と言われました。そして、おばあさんは古いセーターを持ってきて、“その毛糸を解くのを手伝って下さい”と言い、おばあさんは、その古い毛糸を丸めて、即、それを使ってマフラーを編み始めました。その時以来、私はおばあさんの言葉と行動を、一つの例えとしてみてきました。
 今の私たちの社会を見ると、人が好きなように勝手に“糸”を引っ張っているから、セーターのように家庭、学校、社会は、すこしづつ崩れて行きます。それは「闇」の一つの姿ではないでしょうか。
 しかし、その中で、昔から伝わってきた大切なものを辛抱強く、違った形で活かそうとする人々が、社会の未来を静かに編んでみようとしています。それは「光」の一つの姿ではないかと思います。
 イエスの誕生を祝おうとする私たちは、そのような「光の子」となることに呼びかけられていると思います。アッシジの聖フランシスコと心を合わせて祈りたいものです。
 「神よ、憎しみのあるところに愛を、争いのあるところに和解を、分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに真実を、絶望のあるところに希望を、悲しみのあるところに喜びを、暗闇のあるところに(私は)光をもたらすことが出来ますように助け導いてください。」と。
 ベツレヘムでのイエスの誕生が人の目に入らなかったのと同じように、私たちの努力は、すぐ多くの人々に認められないかもしれませんが、それを惜しまなければ確実に「闇」の中に「光」が輝き続け、いつかは人々がその「星」に向って歩き始めるでしょう。
2005年12月号
ベリオン・ルイ神父

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