沈黙に秘められた叫び(No.112)
毎年のことですが、この季節になると私たちの身の回りには「クリスマス」という言葉があふれて飛び交っています。商売の上でも重要な時期であり、商店はあの手この手でムードを盛り上げようとしています。色々な団体も、このチャンスを逃しません。十二月に入ると、教会にはクリスマスの寄付をあおぐ郵便物が山ほど届きます。
しかし、イエスの誕生の現実の姿は、そんなクリスマスムードにそぐわない厳しいものでした。マリアに驚きと共に人生の計画の大きな変化をもたらした突然のお告げ。マリアの妊娠に直面したヨセフの混乱と苦悩。ナザレからの苦難の旅。旅路途中の出産。ヘロデから逃れるための逃亡生活と外国での滞在。皆さんもご存知の通り、イエスの誕生の現実はこのように今のクリスマスムードとは無縁のものでした。
私たちは、いざとなると金持ちに深いお辞儀をし、実力者にお世辞を述べ、強い者に親切にします。そして、貧しい人をあごであしらい、弱い者を無視し、病気の人、アルコールなどに依存する者に冷たい。イエス-キリストを信じると口で宣言しながらも、私たちの生き方の中で、矛盾したことが次から次に吹き出てきます。
ところが約束の救い主、神の御子は、人間の前で頭を下げました。厳しい状況の中で人間として生まれる程、目立たない職人の生活を送る程、一人の弟子に裏切られる程、悪人と誤解されて奴隷の死刑を耐え忍ぶ程に。しかし「沈黙」にたとえることの出来るその状態に、神の「叫び」は「秘められて」いました。残念なことに、人はそれに気づきませんでした。気がつかなかったせいか、それともまさかと思ったかわかりませんが、とにかく、多くのユダヤ人の信仰の対象は、昔の懐かしい思い出と、未来への夢で、現実を生かしていない状態だったので、素通りして、イエスを歓迎しませんでした。
私たちの場合はいかがでしょうか。
聖書に出る昔話を憶える程度なら、信仰ではありません。聖書の言葉を教義にすることも信仰ではありません。クリスマス-イブに教会に行って、若き時代の懐かしい思い出を復帰させようとすることはあいにく信仰の影にもなりません。信仰は感傷的なムードでは成り立ちません。およそ二千年前に生まれた赤ん坊は、闇の中に輝く光でした。彼はの源でした。、その光と命の主を迎えることは、イエスと一緒に周りの人々に希望と生きる目標をもたせ、本物の思いやりをもって隣人の苦しみに接し、行動に移すことです。それは声を出すことのできない人々の「沈黙」に「秘められた神の叫び」に耳を傾けることです。
以前聞いた話によると、終戦後、「クリスマス」を「クルシミマス」と読み替える冗談がはやったそうです。なるほど、よく考えてみると、その冗談の中に意味深いことが潜んでいます。しかしそれに気づくために、私たち一人一人には「回心」することが必要です。
飼い葉桶の中で、初めて響いたイエスの産声は、十字架の上で大きな叫びのうちに消えて行きました。その声は「回心」を呼びかける声でした。待降節の間、特に12月15日行なわれる共同回心式の日に、今年のクリスマスを相応しく迎えるために、その声の叫びかけに耳を傾けたいと思います。
2004年12月
ベリオン・ルイ神父
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