バベルの塔の黄昏…ペンテコステの夜明け(せいかぞく誌「100号」を迎えて)(No.107)
バベルの塔の黄昏...ペンテコステの夜明け。その謎めいた標題を通して、私は何を言おうとしているのか。それは、せいかぞく誌「100号」と一体どういう関係があるのかと首をかしげて思う方がおられるでしょう。
* バベルの塔の話(創世記11.1~9)を読むと私の頭の中で -勝手な解釈に過ぎないかもしれませんが- その話はどうしても「同一」のシンボルとして映っています。“人々が皆一つの民として同じ言葉を話し、同じ材料を使って天に届く一つの塔を建て、有名になろう”として神に挑戦しました。ところが、その人間の考えは神の考えに副わなかったため、神は”全地の言葉を混乱(バラバラ)させました。“と。(創世記11.9)神は人間を創造した時に、人をクローンのように作ったのではありません。神が考えておられる人類の「一致」は、「同一」とは違います。だから、神を信じる民は、同じ制服を着る人形のコレクションでなければ、同じ思想に服従する集団でもありません。神の民の理想的な姿は、盲目的に命令に従う軍隊とは違います。
* 「同一」のシンボルであるバベルの塔の話に反して、ペンテコステ -聖霊光臨- (使徒言行録2.5-12)の話は、「一致」のシンボルになっていると思います。“当時知られていた国々からエルサレム(神の都)に集まって来ていた人々は、それぞれ言葉が違っていましたが、一人一人の心の中で確実に、神の声が響き、福音の言葉が通じました。”それで、人の自由意志によるイエス-キリストの共同体が誕生しました。神の民に加わる人々は、多様性を活かしながら、父である神への信仰のうちに交わり、イエスと共にイエスに倣って生き、聖霊に派遣され、豊かな共同体、虹の色の共同体を築き上げようとしています。その共同体が目指す「一致」は、「同一」とは全く無縁です。なせなら、「同一」は神のみ心に背いているからです。
天才なパウロは、“体のたとえ”を通してそれをわかりやすく説明しました。(コリントの信徒への手紙第一12章12~31) そのたとえのおかげでわかることは、私達は、バベルの塔の時代の人ではなく、ペンテコステの時代の人でなければなりません。
イエス-キリストの共同体にはいっている私達は、様々で、それぞれに委ねられた使命は違います。同じ鋳型にはめられたのではないため、多様性を尊重することは、最も大切なことです。だから、お互いに認め合い、理解し合い、受け入れ合うように努力しなければなりません。そのおかげで、共同体は、神の豊かさを反映することが出来ます。
イエスは弟子たちを、二人づつ宣教に遣わした理由はそこにあると思います。目的はお互いに監視し合うことではありません。それは、一人だけで、イエスとその福音の素晴らしさと豊かさを十分に伝え、証しすることが出来ないからです。補い合うことによって、イエスの真の姿を、いくらか人々の目の前で浮かばせることが出来ます。
* 私は「せいかぞく誌」に期待していることは、黒崎の共同体の多様性の豊かさを反映し、そしてそのような共同体作りに役立つことを心掛けることです。
もちろん、「せいかぞく誌」は、小さな手段に過ぎず、素朴な道具ではありますが、その目的は計り知れないものです。
「せいかぞく誌」を発行し始めた方々、今日それを続けている方々に感謝しながら、先程描いた夢が叶えられることを、心からお祈り致します。
「せいかぞく誌100号」皆さん、おめでとうございます。
2004年7月
ベリオン・ルイ神父
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