平和ぼけって(No.145)
“平和ぼけ”、いつその言葉が現れ誰が初めてその言葉を口にし、その言葉の意味あいは何でしょうか。ご存知の方がいらっしゃれば是非教えていただきたいと思います。
なぜなら、その言葉を聞くと戸惑いを感じる時があるからです。
きっと私はその言葉の意味をよく把握していないからでしょう。・・・それにしても、その言葉を口にする人によって“平和ぼけ”という言葉にどうも様々な思いと意図が秘められているような気がしてなりません。
世界の問題を解決する為に暴力行使が相応しくない、“軍事産業の予算よりも教育や福祉の予算を優先しよう”と言ったところで、“お前は平和ぼけだ”と言われたらちょっと困ります。
イエスキリストから神の平和を残され与えられた私たちは“ぼけていない”からこそ平和を求める人々に協力し、平和の実現の為に働くように心掛けています。
教会の中で1月1日は「世界平和の日」と定められ、日本の教会は8月6日から15日までの期間を「平和旬間」と定めました。その間に私たち一人ひとりが平和について考え、平和の為に祈り、そして平和を築き上げる為に行動する事を呼び掛けられています。
人が銃を手で握りにらみ合う時に平和について考える事は既に遅過ぎます。
まず自分の内に、人に対する先入観や偏見が潜んでいる事に気付く事が大切な事だと思います。その有毒な傾向に対して戦おうとしなければ、人の感情をあおる煽動者の台詞にのせられてしまいます。民族意識、国家意識などは自然で本能的なものだとおっしゃる人は少なくありませんが、実はその意識が殆ど教育によって植え付けられています。そうでなければどうして愛国心を育てる必要があると訴えられるのでしょうか。
教科書から沖縄での軍による強制的な集団自決という事実が消え戦争の間に行われた虐殺などが否定的な思想に基づいて見直され、意図的に歴史の歪曲が行われている事を皆さんもご存知の通りです。しかし歪んだ歴史観をもっと、誠意のある関わり合いを結ぶ事が出来ず本当の意味での平和を築き上げる事が出来ません。
人も人種も、民族も国も、その歴史と文化は違います。問題はその「違い」をどう見るか、その「違い」からどんな結論を引き出すかと言う事です。それに当たって私たちはイエスの言葉と生き方を判断の基準にする事を忘れてはなりません。
2007年3月26日、日本のカトリック司教団は「信教の自由と政教分離」という本を出版しました。既に黒崎教会では130名、天神町教会では50名の方がその本を手に入れ、それについて学ぶ為に分かち合いが行われました。「平和旬間」を機会にして是非多くの方がその本を読みそれについて真剣に考えるようにお勧めしたいと思っています。そこには鋭い分析に基づいて司教たちは明白に教会の教えを紹介しているからです。
イエスの福音の光の中に自分の心の動きを見る事、自分の中にある闇と戦う事なしに平和を語る事が出来ません。そしてそれを知り、それを強く認識しなければ環境の影響に呑まれ宣伝にのせられてしまいます。
今年の「平和旬間」の間、司教たちの次の言葉に耳を傾けるように心掛けたいと思います。
「教会は国家の正当な権威を認めますが、国の政策が神の意思に沿わない場合は神に従う方を選びます。」と。
(「信教の自由と政教分離」12ページ)
2007年8月号
ベリオン・ルイ神父
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