不思議な“団体”(No.116)
人の団体は、その数も、その種類も、その性質も、多種多様です。労働者は自分たちの権利を守るために組合を作ります。会社同士で利益を求めて合併します。同じ市民が力を合わせてより住みやすい社会を目指しています。同窓会、合唱団、組合、政治、宗教、スポーツ、旅行、研究などの団体があります。
*ところが、一風変わった“団体”があります。その“団体”には女性も男性も、赤ちゃんも人生の黄昏を迎えている人も、健康な人も病気の人も、無学な人も学者も、雇い主も労働者も、一緒になっています。その“団体”は会合を開くと、やり手の社会人も、無口の人も、頑固な人も、柔和な人も、理屈っぽい人も、平等な立場で発言するので、能率が上がるとは言えません。その“団体”は組織としてもともとルーズなところがあり、また強い人には戒律を守らせる力がないため、計画を立てるのが場合によって簡単なことではありません。
にもかかわらず、この“団体”は二千年も前から存在し、現在、全世界のほとんどの国で芽を出しています。つながりは戒律と掟よりも「イエス」という人物なのだから、実に不思議な“団体”です。仲間を赦さなければ、「イエス」の祈りを唱えることが出来ず、お互いに「イエス」の手足となり、「イエス」の命のうちに交わるから、一致を常に目指すことが要求される不思議な“団体”です。
−それは私たちの教会です−
「教会」という言葉は、ギリシャ語のエクレジアを翻訳しています。もともとイスラエルの民の中で、ヘブライ語で、その言葉は“集い”を意味し、言葉のひろがりによって集う人々、共同体を言い表すようになりました。集う人々は神によって呼び集められているから、お互いを選んで集まっているのではありません。教会は仲良しのクラブではありません。又、同じ神に呼ばれているから、お互いの関係が平等であり、権利を主張することどころか人に奉仕することを理想にしているため、自意識過剰が対立と分裂の種に成りかねません。先程書いたように、その“集い”には、人種や国籍を含めて“違った”人々ばかりが加わっています。教会の中でその“違い”が消されるのではありません。人々はその“違い”を踏まえて、お互いに話し合い、理解し合い、尊敬し合い、ゆずり合い、助け合い、赦し合うことによって、イエス−キリストによる豊かな共同体を築き上げようとしています。そしてそれは、“しるし”となり、社会、世界のなかで神の国の誕生に協力しようとしています。
*難しい? 当たり前です。簡単なことなら、イエスは十字架の上で人類のために命を捧げたはずがありません。 不可能? いいえ。イエスの次の言葉を忘れなければ。「私を離れてはあなたがたは何も出来ない。」(ヨハネ15.5)と。
*お互いの“違い”を不愉快に思わず、それを受け入れ、その“違い”を乗り越えることによって、イエスのうちに皆が豊かになることを目指す共同体、それは黒崎教会“聖家族”の共同体のための私の夢です。
虹を一色に塗り替えないようにと、それは私の祈りです。
2005年4月号
ベリオン・ルイ神父
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