エルサレムへ上ろう(6)(No.135)
詩編が歌っているイスラエルの森、ヨルダン川のジャングルを通り抜けていた豹、そこで吠えていた獅子、山を歩き廻っていた熊や狼はどこへ消えてしまったのでしょうか。旅をしながら、今は目に映らない風景を頭の中でよみがえらせようとしました。この地を訪れると本当に歴史の重みを感じます。大自然と人の歴史を。イエスがこの地を去ってからの歴史を含めて…。
ユダヤ戦争(66年〜70年)に巻き込まれることを拒んだエルサレムとユダヤのキリスト者たちは、ユダヤを去り、ペツラ(現在:ヨルダン)に住み着きました。すなわち60年代後半から教会に対する迫害が終わるまで、つまり4世紀の初め頃まで、例外を除いては(エルサレムへの巡礼の例がある)キリスト者はイエスが生活し、活躍された地に住まなくなりました。そのために場所に対する記憶が薄くなり、正確な情報は乏しくなりました。東ローマ帝国の皇帝コンスタンチヌスによって信仰の自由が認められると(313年)、皇帝の母である聖へレナはパレスチナへ巡礼に行き、−経済的な利益の期待に基づいた“うわさ”を含めて−古い伝説をもとにして、誕生からコルゴダの上での死までのイエスの一生を思い起こさせる場所で、記念として、多くの聖堂が建てられました。後に今日に至るまでその聖堂は何回か建て直されました。更に自然の災害(地震)や戦争のため、パレスチナの顔はずいぶん変わりました。6世紀まで、エジプトもパレスチナもヨルダンも、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の一部で、そこに住んでいた人々のほとんどがキリスト信者でした。ところが7世紀の初め(610年ごろ)イスラム教(回教)がムハンマドによって創立され、ジハード(聖戦)によってアラブ人はその国々を占領しました。(エルサレム638年)。生き残ったキリスト者はわずかでした。後に彼らを助け、“キリストの墓を解放する”ために十字軍の遠征(11世紀の終りから8回、175年の間)が行われました。とにかくその地方のキリスト者の歴史は不安、弾圧、迫害の繰り返しの歴史です。そして今も。そのキリスト者は(東方のキリスト者)カトリック教会を含めて32の教会(宗派)に別れています。旅の間に私たちが出会った東方の兄弟について連帯のしるしとして一言。
* エジプトのコプト教会。コプトは“エジプト人”と意味しており、カイロのコプト地区に行った時に私たちは二つの聖堂を訪れ、その兄弟の祈る姿を見、神を賛美する彼らの声を聞き、しばらくの間、共に祈ることが出来ました。マルコに遡るその教会は40年前から“復活している”と言われています。置かれている状態が危険で、信仰を表明することは命がけなのに、司祭、修道士(女)になろうと選ぶ若者が多く、主の日に(金曜日)ミサ(2〜3時間も!)の後、信仰の養成のために信者たちはほとんど一日を教会で過ごし、著しい勇気をもって生きています。コプト人はエジプトの人口の18%を占めているのですが、回教徒ではないから差別され、禁じられた職業が多く(たとえば公務員)、税金に苦しめられ(破産に追い詰められる)、警察に監視され、選挙権があっても投票が行われるのは交番だから身の安全のために事実上その権利を行使することが出来ません。それに警察に守られていないため、突然過激な回教徒に暗殺され、教会が放火されるのもしばしばです。2006年1月19日のアレクサンドリアでの反コプト人の暴動は珍しく、日本の新聞にも報道されました。コプト人にとってエジプトでキリスト者として生活することは正に十字架の道です。
* イスラエルのアラブ人キリスト者。ベツレヘム、ナザレなどにはアラブ人でありながらキリスト者である人々が少なくありません。しかし回教徒から裏切り者扱いされ、イスラエルから疑われ板挟みになり、危険を逃れるために安全を求めて多くのアラブ人キリスト者はイスラエルからアメリカやヨーロッパの方へ移住してしまいます。
* ヨルダンのキリスト者。ヨルダンでの私たちのガイドさんはアタナジオという霊名を持っていたキリスト者でした。私が司祭で、しかもフランス人であることを知り、彼は胸の内を明かして見事なフランス語で二時間も話し続けました。彼の口から中東におけるキリスト者の現状について聞いたことが頭から離れません。特にイラク戦争が始まって以来(ヨルダンはイラクの隣国)のことについて、自分の耳を疑うような話を聞かされました。教養の高いレベルで、パレスチナ人である彼は絶望感を抱き、回教徒でない人は回教徒の多い国で共に生活することが不可能だと結論付けて、石油と水不足の問題に加えて現在のイスラム教の中で存在するパラノイア(偏執狂)は次の世界戦争の原因になる、という非常に悲観的な心境を打ち明けました。“それで自分はスイスへ移住し、そこで家庭を築くことを決めた”と話を結びました。
彼の話の中でイラクという言葉はよく出てきましたがそう言えば戦争のためにその国で百二十万人いたキリスト者は今六十万人まで落ち込んでしまいました。バグダッドでは75%のキリスト者は脱出してしまいました。(カトリック新聞2006年8月13日)
春の二週間の信仰の旅において様々なことを確信しましたが、中東における回教徒と少数のキリスト教徒との関係に関しては、心の中で戸惑いと不安しか残りません。それに世界の火薬庫となっているこの地で、ガソリンとマッチを持って遊んでいる人がいることを思うと…。“イエスよ、何をすればいいのか教えて下さい。そしてお願いだからこの地でのあなたの弟子たち、私たちの兄弟を心にとめて下さい”。そのようにしか祈ることが出来ませんでした。
(続く)
2006年11月号
ベリオン・ルイ神父
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