若い苗木を育てよう(No.156)

悩みと言えば大げさですが、司祭としての私の心配事の一つをこの「一言」で皆さんと分かち合いたいと思います。
せいかぞく紙6月号に〔総会報告5ページ?_第170回運営委員会報告7ページ_9〕記されている様に、青少年の教会での信仰教育について共同体として新たに考える時期が来ていると思います。
長い間私たちの教会は援助修道会のシスター達におんぶされ、シスターを中心にリーダー達が集まり教会での信仰教育が行われてきました。私も安心して携わりながらも細かい事を任せる事が出来ました。この場を借りてシスター達、特にシスター塩路やリーダーの皆さんに心から感謝の意を述べ、御礼を申し上げたいと思います。本当にご苦労様でした。
ところがどうして今になって新たに考える必要があるのでしょうか。一つの理由は司祭と同じように修道女にも高齢化と人数減少という現象が深刻になったからです。様々な分野で献身的に活躍し、積極的に協力してこられたシスター達がいなくなりつつある、その事が教会にどれ程の影響を及ぼしてくるかを意識する必要があると思います。今にも水平線に津波が押し寄せようとしているのにそれに目を止めず浜辺で暢気に寛ぐ事は災難に繋がると同じように、その状態に対して危機感を持たなければ目覚めは辛いでしょう。世の終わりが近づいたと警鐘を鳴らすつもりはありません。ただ一つの結果として青少年の教会での信仰教育をシスターを中心としたリーダーのチームに任せる時代が終わったと知っていただきたいのです。
共同体として皆関心を持ち、どのようにして教会で青少年の信仰を養う事が出来るかを共に考えるように心掛けなければならないと思います。勿論今までそのことについて考えた事がないといっているのではありませんが、他の人に“任せていた”という事は事実ではないでしょうか。
*信仰を養う事。それはまずご両親の使命と責任です。教会ではそれに協力する事しか出来ません。祈る事、何が正しいか正しくないかキリスト者として判断する事など、親は身を持って子供との対話を通してそれを教えるようにと求められています。その為に親として何を優先して生きているかを考えなければなりません。すなわち親の信仰は渡す事の出来る“品物”ではありません。だから親が信じても子供も信じるようになるとは限りません。たとえベストを尽くしたとしても。
親に求められている事は子を信じさせる事ではなく、子供が信仰に目覚める事が出来るように導く事です。その導きは何より大切な事です。
*教会ではそれに協力します。黒崎では三つの事を目指しています。1.子供が知識を得る事。誰を何を信じているか(復員を中心に)2.共同体意識を持つ事。一人で信じるのではなく、神の民、キリストの共同体、教会の一員である。3.典礼に養われ(特に感謝の祭儀、赦しの秘跡)生活している場でイエスの証し人になる事。
勿論それは理想の一種であり、短い時間で小学生3年〜6年:第二第三日曜日・第四土曜日、中学生:第二土曜日、しかも子供達の出席次第、出来る事は限られています。
14年もの間、保護者の皆さんの要望(塾・クラブ活動)を受け入れ、3回も集まる日と時間を変えリーダーと一緒に様々な工夫を凝らし模索してきました。それによって子供達はもっと確実に集まれる事が出来るという期待を持って。
多くの保護者の協力を得る事が出来たのは収穫ですが、子供たちの充実した参加は課題として残っていると思います。又、新しいリーダーの誕生も課題の一つです。募集していますのでどうぞ申し出て下さい。専門家を求めているのではありません、自分の信じているイエスキリストを子供達に知らせたいという熱意だけで結構です。一緒にやりながら様々な方法を覚えるようになりますし、それによって自分の信仰も必ず一層確実なものになります。
14年前に比べれば名簿の上では幼児洗礼が少なくなった為、小学生の人数は半分になりました。現在小学校1年から6年まで子供達は22名です。中学生は20名ですがミサに参加しても月一度の勉強に参加するのはその3分の1です。
すなわち全体的なことを見ると、教会での信仰教育は消えたわけではありませんが勢いが弱くなり衰えを感じます。その事実を隠す事が出来ないと思います。教会の将来を考えると、もう一度教会での青少年の信仰教育に力を入れる必要があると確信しています。
それを共同体の課題として扱っていただければと希望しています。その事について考える小委員会を設置してはと思います。運営委員会にその提案を出して何が出来るかと具体的に考えてみたいと思っている次第です。
どうか皆さんもそれに関心を示し、自分の事として考えていただければ幸いです。
2008年7月号
ベリオン・ルイ神父

結婚?(No.155)

神に似せて創造された男と女は、その人格的な交わりの深さによって永遠に結ばれることが出来、それによって神の人類に対する愛、教会に対するイエスキリストの愛の美しさと忠実さを人の目に焼き付けています。(5月号参照)
教会の結婚に対する教えをあまりにも要約しすぎている以上の言葉は確かにすばらしい理想を描いているのですが夫婦の関係は二人の違った人間の関わり合いであるだけに全ての夫婦はそれを成し遂げることが出来るとは限りません。夫婦の一致を目指すために全力を尽くすことを求めることは当然の事ですが、“教科書通り”旨く行かず理想を実現することは不可能になった時何をすればいいのでしょうか。
人は冷静に判断することの出来る時があれば感情、しかも激しい感情に駆られる時もあります。人の心と感情、エゴと欠点、人がぶつかる厳しい現実のため二人の関係は理想から手の施せない程遠く離れてしまった時何をすればいいのでしょうか。破綻の状態に陥った夫婦の苦痛に対して奇麗事を並べる事だけで答えになるのでしょうか。暴力は振るわれ脅えて毎日を過ごし人間として尊敬されることなく惨めな生活を送るとき、遊ぶ事が癖になり借金に追われ不安と涙の日々が続く時、夫婦の愛はどうなっているのでしょうか。別居して二度と一緒になる可能性がなく、努力を尽くしたあげくどうしようもない状態に至った時、夫婦の一致は何を意味しているのでしょうか。悩んだり苦しんだり、絶望のどん底に沈んだ時、教会から“再婚は許されない”という忠告しか得られないとすれば、人はそこで神の憐れみ、イエスによる救いを見出すことが出来るでしょうか。結婚生活は失敗に終わり一生消えない傷跡を隠して生きて行く人達に何をどのようにして再び希望への道を案内する事が出来るのでしょうか。
嵐の後虹が出るように、再婚という形で幸せが訪れようとする時、教会から“駄目です”という容赦のない冷たい反応しかなければ教会の教えは「背負うことの出来ない重荷」(マタイ23.4)になるのではないでしょうか。徴税人や娼婦にとってイエスの言葉は福音でしたが実際に人を破門し公の罪人のように人を扱っていると見られる時、教会は救いの嬉しい知らせを聞かせているでしょうか。苦しんでいる人の助けにならなければ教会の言葉は神の慈しみ深い暖かい愛を伝えようとしているでしょうか。
この「一言」を読んでいる皆さんが飽きてしまう事を覚悟してここまでの殆どの文章を“のではないか”、“でしょうか”という形で結んできました。それは誰を頼りにすればいいのかと悩み苦しんでいる方々に会う時に私の頭と心にいつもといっていい程それらの疑問が浮かんでいるからです。人は掟の為にあるのではなく、掟は人の為にある、その言葉は常に私の耳に響いています。
教会の教えという盾の後ろに身を隠し逃げることは簡単?な事ですが、イエスはここにおられたら何をなされるのかと必死に考えた方はたとえ答える事が難しくても、苦しんでいる人の前で希望の光を輝かせ、救いの道を開く事は可能な事になるのではと思います。
確かに吟味した上で正しく判断し、慎重に行動する必要があるでしょうが、事実上夫婦はもう存在せず元に戻る事がもう有り得ないと確認された場合再婚を許さず、信仰の道を塞ぎ御聖体に養われ支えられ力付けられる事を断る事は、イエスが生きておられた間の態度と福音に相応しく忠実な振る舞いになるのでしょうか。
「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」と。(ヨハネ4.18)それを知った上でイエスはサマリアの女に声をかけ、「心の内で泉となり永遠の命に至る水」(ヨハネ4.14)を飲むようにと誘いました。
そのイエスに倣う事。それは21世紀の教会の一つの課題ではないでしょうか。(完)
2008年6月号
ベリオン・ルイ神父

結婚?(No.154)

4月号の「ひと言」を次のように結んでいました。「愛の泉と源である神_呼び名は何であれ_との深い関わり合いなしに夫婦として愛し合い続けることはきっと難しいことでしょう」と。
不倫を美化しているメディア、離婚率が高い社会の中で夫婦として忠実に生き夫婦の一致を保つことは容易な事ではありません。
しかし、そもそもどうして神は夫婦に忠実を守り一致を保つことを求めておられるのでしょうか。それは愛なる神が男と女を「ご自分にかたどって創造し」(創世記1.27)「女を男のところへ連れて行き」(創世記2.22)_お見合いし_二人の幸せ(創世記2.23.22)の仲人として振舞ったからだと聖書は物語風に説明しています。ずけずけ言えば男と女は単に雄と雌だけではなく、愛し合う事は交尾で終わってしまうのではないということです。
掛け替えのない存在である男と女との間に愛が芽生えると契りが結ばれ、生まれた愛が尊敬、信頼、自由と責任の内に成長し、夫婦が常に一致を目指すこと、それは神が望んでおられることです。男と女が幸せであること、それは神の夢です。更に聖書によると夫婦の愛と一致は神と人類との間の愛と一致を反映し、パウロによると夫婦の愛と一致はイエスキリストと教会との間の愛と一致を表しています。高い(高過ぎる?)理想でしょうが幸せな夫婦生活を送っている方々は神が希望し目指してもらいたいとその理想を納得しているのではないでしょうか。神は人類を愛し、イエスは教会を愛した。そして今も愛しているように男と女は夫婦となってその一致を愛によって築き上げ、愛によって完成するようにと呼び掛けられています。男と女はお互いに愛し合う事を約束して、自由に結ばれた以上その約束を守るように尽くす事はごく当然の事です。その努力こそはお互いの愛のしるしです。このように教会の中で理解された結婚は7つの秘跡の一つになりました。
ところが教会の影響が強かった時代“キリスト教的な社会”!という環境の中で発展したその見解を現在社会の中で貫く事は可能な事でしょうか。
先程結婚は秘跡の一つになったと書きましたが普段秘跡は司教や仔細によって授けられています。ところが結婚の場合は違います。男と女は誓約を交わす事によってお互いにその秘跡を与え合います。しかし秘跡は魔法の世界ではないので演じるだけで、すなわち男と女は信仰の内に結ばれなければ結婚は秘跡にはなりません。たとえ赤ちゃん時に洗礼を受けたとしても、信仰と殆んど関係なしに成長した男と女は“自動的”に秘跡となる結婚を結ぶ事が出来るはずはありません。又、一方は“信者”でもう一方はそうではないとすれば状態は尚更複雑になります。
多様な社会における結婚をどの様に考えれば良いのか。教会はその課題と真剣に取り組もうとしているでしょうか。
いずれにしても信仰の状態はどうであれ、信仰があるかないかにせよ幸せな結婚生活と円満な夫婦の一致を目指す事は多くの夫婦が証明しているように可能な事なのです。
私の経験では愛し合っている二人に関する教会の素晴らしい教えを紹介する時にいつもと言っていい程好意的な反応が見られます。勿論夫婦の関わり合い、結婚生活とは何かそれに対して基礎となる共通理解が必要です。それが不足すれば試練が訪れた場合、溝が出来ひびが入り、壁が出来上がり夫婦の一致への道が塞がれかねません。
その基礎は〃信仰を分かち合う事であれば大いに役に立つと思いますが、底まで行かないにしても神が人の心に注いでくださる愛に基づいた関わり合いを目指そうとすれば夫婦は神が約束された幸せを味わう事が出来るに違いありません。
神が示された理想を実現する事は簡単な事だとは思いません。時には愛し合う事は犠牲を伴いますが試練を乗り越え辛抱強くお互いの愛を完成させる為に努めれば愛の勝利は可能になります。忠実を守り夫婦の一致を保つ為の努力は神が約束されている幸せに導く道として考えてみてはと思います。それに愛なる神は必ず手を差し伸べている事を忘れないように心掛ければ、夫婦は共に愛の道を歩み続ける事が出来るでしょう。
2008年5月号
ベリオン・ルイ神父

結婚(No.153)

結婚式が多い豊かな季節である春を迎えたことを機会にして、結婚を目指している方そのご家族、そして共同体の皆さんとご一緒に結婚について少し考えてみたいと思います。
離婚で終わらない結婚はまるで有り得ないような時代を迎えているような気さえしています。
以前のように一度結婚をすれば一生夫・妻に仕えるためにどんなことがあっても忠実に生きるという事は拒否されているかの様に見える時代です。“バツ1・バツ2”と離婚は笑い話の種にさえなってしまいます。
物質的に恵まれている国こそ山火事が恐ろしい速度で広がっていくように離婚率がどんどん高くなる原因は一体どこにあるのでしょうか。
性の解放や女性の解放という考え方は現在の社会に広く浸透し、現代人の結婚観を始め結婚生活様式さえかわってきたとよく説明されています。まるで子供が玩具と遊ぶのに飽きてその玩具を捨てるように一度結ばれた者はいかにも簡単に別れてしまいます。
ところが“信者”の中でもその傾向が見られるのはどうしてでしょうか。その一つの理由は結婚を目指す時に信仰の位置と大切さが軽んじられているからではないかと思います。
永遠の愛なる神に対して無関心である事がごく当たり前の事になれば欠点や弱点の多い男性と女性に忍耐や忠実を求める事は無理な注文かもしれません。その様な雰囲気の中で結婚に関する教会の教えを伝えようとすると全く時代遅れ、現実とかけ離れたものとしてしか見られないでしょう。
信仰という基礎なしに夫婦の一致の意味が通じ合わなくなり、その必要性も感じなくなってしまいます。神を中心にした夫婦生活を送る事を止めれば当然のように自分だけを中心にして考え行動してしまいます。“信者”であろうと社会の風潮に流されてしまいます。
結ばれた絆が断ち切られる、それは夫婦の運命でしょうか、イエスキリストを信じる者にとって勿論そうではありません。だから教会で結婚するに当たって信仰をどの位置に置くか、相手の方は信者でなければ“信仰を省いて”結婚に臨む事が良いのか、などのことについて真剣に考える事は最も大切な事だと思います。結婚は二人の愛情に基づいた契りですがその愛はどのように理解されているか、二人とも同じように愛を理解しているかを確かめる必要があるように思います。
感情だけの愛だったらわらの様にたとえ激しく燃え上がったとしても試練に遭えばその“愛”が冷めて灰になりかねません。愛し合う事は何を意味しているか、その事について二人でよく話し合うように心掛けなければ後に幻滅の悲哀を味わうようになるかもしれません。
愛の泉と源である神、呼び名は何であれこの深い関わり合い無しに夫婦として愛し合い続けることはきっと難しい事でしょう。
2008年4月号
ベリオン・ルイ神父

復活祭の喜びを味わって(No.152)

「喜びの全体が喜ぶ人のうちに入るのではありませんが、喜ぶ人がことごとく喜びのうちに入る事が出来ます。」その言葉は聖アウグスチヌスの言葉です。
私達はイエスが復活して生きておられるその喜びを完全に味わう事が出来ないでしょうが、心を込めて復活祭を迎えようとすれば、その喜びに満たされる事は可能な事になるのではないかと思います。勿論それは私達の信仰の状態次第です。
コリントの信徒への手紙の中でパウロは次の事を書いています。「私達は今は鏡に朧に映ったものを見ている。だがその時に(死ぬ時)顔と顔とを合わせて見る事になる」と。(第一コリント13.12)
パウロの時代の鏡は現在の厚手の板ガラスと違って、主に磨かれた銅で出来ていた為、人の顔はおぼろげにしか映っていませんでした。それを通してパウロは“今私達は信仰を通してしか神を知る事が出来ない”事を言っています。イエスの復活、そしてそれを通して表されている事。イエスは正に人となられた神である事を信仰を通してしか悟る事が出来ません。だから私達の復活祭の喜びは私達の信仰に準じていると言っても過言ではないでしょう。
それを考えると四旬節の間にキリスト者としてどんな生活をしようと心掛けたかと言う事は大きな影響を及ぼしていると思います。相応しい心でイエスの復活を祝う日を迎える為に私達はどれ程“努めて”きたかを振り返る必要があるのかもしれません。「努める」その動詞は“競技場”という名詞から派生して、スポーツ競技者が勝利を得ようとして「身体を鍛える」“努力”を表しています。選手の“ガッツポーズ”を見る時にその選手の喜びは誰にでも伝わってきます。信仰において“ガッツポーズ”見せる事は出来ませんが、復活祭に向かって自分なりに努力する事が出来たとすれば、イエスが復活して生きておられる事を祝う日に味わう喜びは格別なものである筈です。
無心論者だったドイツの哲学者ニーチェは皮肉っぽく次の言葉を口にしたそうです。「キリスト者自身がもっと復活した人の顔を見せれば私も信じる様になるかもしれません」と。勿論それは朝から晩まで微笑まなければならない事を意味しているのではありません。そんな事をすれば顔面が痛みだしてたまりません。ニーチェが言おうとした事は、キリスト者が本当にイエスの復活を信じていれば彼等の生き方はその喜びを放出する筈だという事です。そしてイエスの一生が証ししている様に、喜びを放出する事は人の顔に微笑みが浮かび、人の心に喜びが溢れ出る為に努める事です。それは人に希望を与え苦しんでいる人と共に歩み、助けを必要とする人に助けの手を差し伸べる事です。
信仰の喜びは気持ちの問題ではありません、信仰の喜びは神の望んでおられる事を行う事から生まれるものです。
「告白」という書物の中で聖アウグスチヌスは次のことを書いた事を皆さんもご存知のことでしょう。「主よあなたは私達をご自身に向けてお造りになりました。ですから私達の心はあなたの内に憩うまで安らぎを得る事が出来ない」と。
それを真似して言えば「人の幸せを願う神に倣って生きる様に努めなければ私達は真の喜び、特にイエスの復活から生じる喜びを味わう事が出来ない」という事です。神は人が幸せでいてほしい為に人を縛るもの、エゴ・欲望・悪・死から人を解放しようと思い人となられました。イエスの復活はその開放のしるしと実現です。復活祭の喜びは神の開放の業を信仰のうちに受け入れ、そして様々な形で自分の生活している場でそれに協力する事から湧いてきます。その努力を惜しまなければきっとイエスの復活を祝う日に微笑みは一段と美しく私達の顔を輝かせるでしょう。
2008年3月号
ベリオン・ルイ神父

書類が呼び起こした思い(No.151)

腑に落ちない思いの時期です。毎年1月の末までに各小教区は「教会現勢報告書」を出すことを要求されています。その書類は各教区、そして国のレベルでまとめられローマに送られます。その書類に転出転入、洗礼から死亡まで、主日祝日のミサの参加者数など、様々なことが記入され、それによって小教区、教区、教会全体の現状が浮き彫りにされます。しかし、それは紙の上での計画に過ぎず、小教区の小さなレベルでもすでに記入される数字には殆んど信憑性がないと言っていい程です。
書く人にはごまかす意思がなくても事実上各自、各家庭の実態を把握する事は不可能に近い事ですので、大まかな数字しか書く事が出来ません。その報告書が反映している小教区とその小教区の現状はいかに掛け離れているかを痛感します。言うまでもありませんが私が拘るのは数字の正確さではありません。それだけだったら統計学者を雇いその協力を求めれば問題を解決する事が出来るでしょう。疑問に思う事を一つの例を通して紹介しましょう。例えば“信者総数”の枠にどの様な数字を書けばいいのでしょうか。「信者」きっとそれは“洗礼を受けた人”の事を指しているのでしょうが、洗礼を受けた人イコール信者という計算は適切でしょうか。この様な調査の意味と目的は何でしょうか。それを通して知った事は何ですか。それが私の疑問です。
旧約聖書のサムエル記下には興味深い話が記録されています。ダビデはユダとイスラエルの王になってから時が経ち、政治状態が安定するとダビデは人口調査を行う事を命じました。(サムエル記下24.1〜9)
それは税金を納める事の出来る人や兵士になれる人の人数を把握する為でした。ところが神はその調査が気に入らず、それに賛成しなかった為、ダビデのその過ちの為にイスラエルの民は辛い体験をしてしまいます。(サムエル記下24.10〜15)多少複雑な話となっているその物語を通してサムエル記の作者は重大な意味のある事を教えようとしています。それは「神の民の人々」「神を信じている人々」の人数を神しか知り得ないという事です。
イエスキリストを信じる人々の民の事になると尚更の事だと言えるのではないでしょうか。カトリック教会という宗教団体に属している人々の人数をある程度把握する事が出来たとしても、それはイエスキリストを信じる事とどんな関係があるのでしょうか。教会の中での書類の山は、福音を宣べ伝え証する為に何の役に立つのでしょうか。書類を記入する為に使われる時間をもっと有意義に使う事の方が望ましいのではと思わずにはおられません。
おや、神父は急に機嫌が悪くなってこの「一言」を不満の捌け口に変えてしまったのかな。しかし、それは自分達と関係のない話だと思わないでいただきたいと思います。この“書類”の話は一つの例に過ぎないからです。
キリスト者として生きる為に私達は時間を有意義に使うように心掛けているでしょうか。その事について考えていただければと思い、先程の話をしました。2月6日(灰の水曜日)から四旬節に入り復活祭に向かって40日の間の時間を有意義に使うようにと教会から呼び掛けられています。教会の台帳に名前が載っている“書類上の信者”ではなく、イエスの弟子である事を意識し、福音に基づいて日常生活を送る“信者”になる為に教会の呼び掛けに答える様にお勧めしたいと思います。
早速2月23日、24日に行われる黙想会をカレンダーに記し、それに参加する為の時間を作る様に心掛けましょう。
2008年2月号
ベリオン・ルイ神父

本物を求めて(No.150)

皆さん明けましておめでとうございます。
今年黒崎教会は創設60周年を迎えます。60年前私は7才でした。
“将来ぼくは宣教師になる”と親に言った年だそうです。時間が経つのは何と早いことか!
過去を振り返り、新しい年を迎えるに当って、ますます大切だと思うことが一つあります。
それは「本物」を求めて生きることです。
輝いている石がすべてダイヤモンドではありません。にせものが溢れ、不祥事の多いこの世の中で
濁った水の流れに溺れないために常に「本物」を求め続けることに心掛けなければならないと思います。
もちろん「本物」を求めなくても生きることが出来ます。しかし「本物」を求めないで生きる人は不発に終わる花火に似ているような気がします。野球を始め、スポーツの世界でさえスカウトがおり、将来の“本物の選手”になる人を必死に捜しているのではないでしょうか。
時に絵画を売買する人たちの世界において衝撃的な知らせは波紋を投じています。以前専門家が“本物”だと定めていた作品が実は偽物だったと判明されます。天才的な人は場合によって専門家さえ騙すことができます。すなわち「本物」を求めてそれを捜すに当り、賢明な判断が要求されるということです。その判断の基準は縛られるか開放されるかだと思います。偽物は人を縛り、度々破滅へ導いて行きます。お金や権力などを「本物」として見做している人はよくその罠に陥ってしまいます。
「本物」は逆にそのようなことから人を解放し、自由にします。
* 捜し求めたあげく、賢明に判断した上で私たちは道・真・理・命であるイエスが「本物」であることを信じるようになりました。しかし皆さんもご存知の通り、演奏されたことのない楽譜のように信仰を口先で宣言しただけではどうにもなりません。
◎道であるイエスは世界の複雑な状況、社会の予想外の変化、私たちが直面している出来事の中で日々出会っている人々を通して、私たちを案内しようとしています。その道を捜し求め、そしてその道を勇気をもって辛抱強く歩くために要求される努力に対して、外方を向かないように心掛けましょう。
◎ 真理であるイエスの言葉と生き方に基づいて判断し、偽りとごまかしを自分に許さず、生活している場、家庭、学校、職場、地域社会で真理に相応しく行動するように心掛けましょう。
◎ 命であるイエスの内にイエスと共に生きることに常に注意を払いましょう。それを心掛けなければ偽物の輝きに魅せられてきっと「本物」を見失ってしまうでしょう。博物館や画廊で絵画、宝石、展示品などに人は触ることができず、また盗難にあわない
ために安全装置が設置されています。それは一つの例えに過ぎないのですが社会の中で吹いている様々な風に倒されないため、「本物」を見失わないために安全装置である、祈ること、神の言葉に縋ること、秘跡を受けること、すなわちイエスの命で生きる
ように心掛けましょう。
* 「本物」を求めて生きること、道であり真理であり命であるイエスの後について行くことは楽なことではありませんが、しかしそのおかげで真の喜びを味わうことができるとイエスは約束されました。
『畑に宝を見つけた人、捜していた高価な真珠を見つけた商人は喜びの内に持ち物をすっかり売り払ってそれを買う』と。200801.htm(マタイによる福音13章44節〜46節)
皆さんもこの新しい一年の間「本物」を求めて、その喜びを味わうことができるように心からお祈り致します。
2008年1月号
ベリオン・ルイ神父

天と地のハーモニー(地球からの叫び)(No.149)

今年も教会の暦の上で一年が終り、新しい一年が始まろうとしています。待降節に入り私たちはイエスの誕生を祝う日に向かって歩み始めました。
典礼において毎年同じことが繰り返されているかのように見えるのですが、実は違います。今年も新鮮な気持ちでその時期を迎えるように呼び掛けられています。その努力を支える意味で典礼委員の皆さんは「天と地のハーモニー、地球からの叫び」と いう観点から、イエスの誕生の意味を黙想するようにと私たちの共同体を誘っています。悲鳴を上げている地球の声に耳を傾けることはどうしてイエスの誕生を祝うことに関係があるのかと思う方がおられるかもしれません。そのことについ て少し一緒に考えてみませんか。
 ルカによる福音書は「天と地のハーモニー」をイエスの誕生の物語を通して美 しく描いています。主の栄光が周りを照らし、羊飼いたちがその光に包まれ、神を賛美する天使の大軍の声が響きわたりました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と。(ルカ2.8-14)
ここで、まるですべてが誕生した時の神の声が聞こえてくるような気がします。 「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」と(創世記1.31)“何と素晴らしい宇宙、何と美しい地球”。神はご自身 の業に対して感動さえしているかのように見えます。そして、それをすべて人の 手に委ねました。「すべてを支配せよ」と。(創世記1.28)「支配」、“支える” と“配る”、この地球の命を支え、その命をすべての人に分配する、ということ を意味している言葉です。言い替えれば「主」である神と同じように振舞え、「
主」である神と同じ心遣いを持って地球とその上に生きているものに仕えなさい 、ということです。ところがその素晴らしい使命を委ねられた人はエゴ(個人と 国家のエゴ)と不注意のため、つまり罪のために地球の命を危いものにしてきました。神の望みに逆らい、神の期待を裏切り、人は「支配」することを好き放題、気紛れに目先の利益のためにのみ、地球の命を食い物にすることに変えてしまいました。その結果として植物、動物、人間の命まで脅かされています。大気汚染、温暖化、大地の砂漠化、気候変動、水不足など、それはすべてと言っていい 程、人間の罪の「実」なのです。毒入りの「実」です。人間は“エデンの園”を“死の荒れ地”に変えようとしています。その罪からも私たちを解放するためにイエスはお生まれになりました。だから地球の美しさを取り戻すため、この地球 で植物も動物も人間も、もとのハーモニーの内に生きることが出来るために戦うこと、それに励んでいるすべての人に協力することはイエスの誕生を迎えるのに相応しい行動になります。カトリック教会の自然環境問題への関心は遅々として進まず、他の多くの団体機関に大きな遅れを取っているのが悲しい現状です。
創造主を拝み、愛していると口で宣言しながらも、どうして私たちの関心がこんなに薄く、私たちの動きは鈍いのでしょうか。その罪を幼子から赦していただく必要があります。1990年代から教皇ヨハネ-パウロ二世、2006年からベネジクト十六世は環境破壊とそれに伴う世界の貧しい人々への重荷と深刻な圧迫を信仰の内に認め、そしてそれを防止するために努力することを切に私たちに呼び掛けています。2007年のイエスの誕生を祝う日に向かって、「天と地のハーモニー」を目指すために、“今私は何をすべきか”というこについて真剣に考えてみてはいかがでしょうか。
2007年12月号
ベリオン・ルイ神父

呼び掛ける神に答えて(司祭の召命)(No.148)

今年も11月3日(土)福岡の大神学校で召命の集いが行われます。それを機会にして司祭の召命について皆さんとご一緒に少し考えてみたいと思います。 皆さんもご承知の通り司祭も“こうのとり”によって運ばれて、現われて来るものではありません。皆さんの家庭、私たちの共同体から生まれるものです。今多くの司祭が高齢に達したり少なくなったりしていることに対して、皆さんは関心を持っておられるでしょうか。その関心の度合いはある意味で自分の信仰の状態を反映していることに気付いたことがあるでしょうか。“司祭がいなくなったら誰が自分の葬式を行うのか”と心配そうにおっしゃった方の声が私の耳に残っています。冗談のつもりで言われただろうと前向きに解釈しましたが……どうして司祭になろうとする若者は少ないのでしょうか。神はもう人を呼ばないということは考えにくいことですから、問題があるとすれば、それは答える側にあるということになります。時々耳にする言葉ですが“司祭にもっと魅力があれば若者がその道を選ぶのでは”と。もちろん私たち司祭が若者の憧れの的になることは望ましいことでしょうが、その単純な理由だけで若者は司祭になることをためらっているのでしょうか。少子化、家庭環境の変化、社会やメディアの影響の方がはるかに妨げになっているのではないでしょうか。確かに教会には徹底した分析と未来に対する明瞭な展望が求められているのですが、いずれにしてもここで二、三のことを確認させていただきたいと思います。まず今も神は司祭になるために人を呼んでいます。なぜなら司祭になしにキリストの教会は成り立たないからです。司祭とはどんな人ですか。神の言葉を伝え、その言葉によって集められた人々が感謝の祭儀を始め、秘跡を通して神の命に養われ、支えられ、赦され、派遣されるために、イエス・キリストとその教会に一生を捧げて生きる人です。その理想に近づけば近づく程、その司祭を通して神は後継者を呼ぶことが出来るでしょう。 司祭である私は、自分の言葉と生き方を通して、イエス・キリストと教会のために一生を捧げることは意義のある素晴らしいことだと証明することが出来れば、きっとその私を通してでも神は、人を呼ぶことが出来るでしょう。反省を踏まえた上で、それをもっと認識して若者に声を掛けながら引き続き与えられた使命に相応しく生きるように励んでみたいと思います。 しかし同時に神は今も皆さんの家庭を通して司祭になるために人を呼んでいることに目を留めていただきたいと思います。たとえ、たまには例外があったとしても、普段司祭は皆さんの家庭から生まれるものです。司祭の誕生を他人の問題として見るのではなく、自分の家庭、家族から司祭が生まれるように考えてはいかがでしょうか。家で自分の子供、孫にそれについて話し、考えさせ又、そのために祈ることは何より大切なことです。 更に共同体の中で“どうして教会にとって司祭が必要なのか”“どんな司祭が教会に望ましいか”と、神の言葉や教会の教えに基づいて考え、話し合い、祈ることにもっと力を入れる必要があるのではないでしょうか。
時代によって司祭の姿と有り方が変わり得るのですがキリストの教会にとってその存在はどうしても必要です。今日も司祭を通して、家庭を通して、共同体を通して神は司祭になるために人を呼び掛けようとしているのですが、私たちの協力が足りないために神の声は聞き取れなくなっているのではないでしょうか。
最後に人生の岐路に立っている若者よ、“今神は私を呼んでいるのでは”と、そのことについてあなたも真剣に考えてはいかがでしょうか。
2007年11月号
ベリオン・ルイ神父

「絆」と「商い」(No.147)

秋になると、多くの小教区で「バザー」が行われ、その準備のために時間とエネルギーがかなり使われています。場合によって「バザー」は小教区の一年間のうちの中心的な行事となっているようです。派手に又は地味に行われるその催しに対して、見方が様々です。それに賛成する方がおられれば、反対する方もおられます。
日本に来て初めて「バサー」に関する話を聞いた時に驚いたことを覚えています。それは同じ「バザー」という言葉が国によって同じことを連想させるのではないからです。この言葉は元々ペルシア語で、現在のイランの言葉です。単に「市場」を意味しています。ヨーロッパの国々に伝わったその言葉は市場の他に、フランスでは“乱雑”“めちゃめちゃ”と意味するようになり、イギリスやアメリカでは社会事業などの資金を集める目的で催す慈善市場を指すために使われました。日本の教会での「バザー」はもっぱら慈善事業を指すために使われているようです。“しかし趣旨がそうだとしても「バザー」は一種の市場だから教会の中でそれを催すは望ましくない”と思う方がおられます。目的は何であろうと商いと信仰は水と油のように決して交り合うことはありません。確かに金銭的な成果を収めることは隠された本音と成りかねません。「バザー」そのものの催しが金銭的な関係で済むのなら、たとえ利益を上げたとしても、たとえ皆満足したとしても実は的をはずしてしまうのかもしれません。「バザー」を開くことに当って、教会共同体は売る側と買う側に分かれ、一方はなるべく高く売ろうと考え、もう一方は安く手に入れようと当てにしてしまいます。“しかしいい目的のためにそれによって双方が得をするのであればそれでいいのではないか”と思う方もおられるでしょう。だがそうなれば教会での「バザー」は只単に“商売”に成りかねません。その“商売”が悪いとは言っていませんが教会はわざわざそれに携わる必要があるのかという疑問が浮かんできてもおかしくありません。
黒崎教会では「バザー」がありません。あるのは聖家族の集いです。確かにその間に食事を始め、様々なものが販売されるのですが、目的はお金を集めることではありません。利益があればそれを献金しようということだけです。目的は共同体の祝いです。それを機会にして私たちは様々な形で協力することによって奉仕する心を養い、楽しく参加することによって共同体に対する意識を高め、喜びと親しみのうちに結ばれるように心掛ければ、共同体の交わりがより一層深まります。
だから10月21日は、たとえ忙しくても我が家へとすぐに足を運ばず、どうか皆さん兄弟と共にひとときを過ごすようにとお勧めしたいと思います。その日の交わりを感謝の祭儀をもって迎えます。その間に幼児洗礼式を行う予定です。引き続きコンサートを楽しみ、その後食事を共に味わいたいと思います。子供から年長者まで一つの家族として、聖家族、イエス・キリストの家族に相応しく絆を結び、共にゆったりした時間を過ごすことが出来るように是非都合を付けることを心からお願い致します。
2007年10月号
ベリオン・ルイ神父