「回心」の様々な顔(No.139)

 「暴風雨の夜。外は荒れている。男たちは酒を飲んでいたそうです。道にあふれた水が酒場に流れ込む。くるぶしまで水がきて、誰かが悲鳴をあげた。いや、大したことはない。ゆっくり飲もうや。やがて膝まで浸かった。なに、そのうち引くだろう。ついに腰近くまで… 避難するのに間に合わず、酔っ払いは溺れてしまったという。」
 このたとえ話が表しているように、好ましくない現実をなかなか人は認めたがらないということです。 私たちの信仰生活において、それに似た現象が見られるのではないでしょうか。
 2月21日から私たちは四旬節にはいりました。今年も四旬節の間に「回心」への呼び掛けは私たちの耳に響きます。ところがその「回心」という言葉はどこまで、どのように理解されていますか。疑問に思う時があります。
 イスラエルの民にとってそれは神に“立ち帰る”ことを意味し、イエスにとってそれはご自身の言葉と生き方、ご自身へ身も心も回すこと、すなわち思い切った転換を行うことを意味しています。今の自分の考え方、生き方、信じ方を振り返って、「回心」することはどんな変化を求めているか。四旬節の間にそれについて少し考えてはいかがでしょうか。
 教会共同体としても「回心」することについて考える必要が大いにあると思います。一つの例として“葬儀”の有り方に関してです。死に直面した時にのみ、教会を思い出す方はますます増えています。その場合は教会での“葬儀”は何を意味していますか。昔、洗礼を受けたからということだけで、人をキリストの“信者”として扱うことが正しいことでしょうか。無条件に人の要求に応じていいのか。何に基づいて判断し、どのようにして振舞えば望ましいか。イエス−キリストを信じるとは何を意味し、教会とは何なのか。「回心」への呼び掛けはそれにも及んでいることをもっと認識する必要があるような気がします…。
 その「回心」の一つのしるしとして私たちは3月2日(火)共同回心式という形でゆるしの秘跡を受けるようにと誘われています。どうして教会はその「形」を復活させたのでしょうか。それは罪が個人の問題で終るのではないことを認識させるためです。ところが時の流れと共にその形でのみ、ゆるしの秘跡を受ける“習慣”が生まれたかのように見えます。すなわち共同回心式以外で神からのゆるしを求めることが稀なことになったということです。言うまでもありませんが、それが共同回心式のせいだとは思っていませんし、秘跡を受ける回数が多いから信仰が厚く、罪に対する理解が深いと思っているのでもありません。ただその秘跡を通して赦して下さる神との出会い、その神と接する機会が減ることによって罪に対する私たちの感覚が鈍くなるのではないかと問い掛けたいのです。何もかも罪になっているとは思っていませんし、秘跡を受ける理想的な回数を定めようと思ってもいません。ただ罪に対する私たちの感覚がどうなっているかを確認する必要があるのではと思います。罪に対する自分の認識は自分の信仰の状態を反映しているといっても過言ではないでしょう。
 先程のたとえ話の“酔っ払い”のように感覚が鈍くならないために、イエスと教会の「回心」への呼び掛けに今年も耳を傾けたいと思います。
2007年3月号
ベリオン・ルイ神父

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