復活祭の喜びを味わって(No.152)

「喜びの全体が喜ぶ人のうちに入るのではありませんが、喜ぶ人がことごとく喜びのうちに入る事が出来ます。」その言葉は聖アウグスチヌスの言葉です。
私達はイエスが復活して生きておられるその喜びを完全に味わう事が出来ないでしょうが、心を込めて復活祭を迎えようとすれば、その喜びに満たされる事は可能な事になるのではないかと思います。勿論それは私達の信仰の状態次第です。
コリントの信徒への手紙の中でパウロは次の事を書いています。「私達は今は鏡に朧に映ったものを見ている。だがその時に(死ぬ時)顔と顔とを合わせて見る事になる」と。(第一コリント13.12)
パウロの時代の鏡は現在の厚手の板ガラスと違って、主に磨かれた銅で出来ていた為、人の顔はおぼろげにしか映っていませんでした。それを通してパウロは“今私達は信仰を通してしか神を知る事が出来ない”事を言っています。イエスの復活、そしてそれを通して表されている事。イエスは正に人となられた神である事を信仰を通してしか悟る事が出来ません。だから私達の復活祭の喜びは私達の信仰に準じていると言っても過言ではないでしょう。
それを考えると四旬節の間にキリスト者としてどんな生活をしようと心掛けたかと言う事は大きな影響を及ぼしていると思います。相応しい心でイエスの復活を祝う日を迎える為に私達はどれ程“努めて”きたかを振り返る必要があるのかもしれません。「努める」その動詞は“競技場”という名詞から派生して、スポーツ競技者が勝利を得ようとして「身体を鍛える」“努力”を表しています。選手の“ガッツポーズ”を見る時にその選手の喜びは誰にでも伝わってきます。信仰において“ガッツポーズ”見せる事は出来ませんが、復活祭に向かって自分なりに努力する事が出来たとすれば、イエスが復活して生きておられる事を祝う日に味わう喜びは格別なものである筈です。
無心論者だったドイツの哲学者ニーチェは皮肉っぽく次の言葉を口にしたそうです。「キリスト者自身がもっと復活した人の顔を見せれば私も信じる様になるかもしれません」と。勿論それは朝から晩まで微笑まなければならない事を意味しているのではありません。そんな事をすれば顔面が痛みだしてたまりません。ニーチェが言おうとした事は、キリスト者が本当にイエスの復活を信じていれば彼等の生き方はその喜びを放出する筈だという事です。そしてイエスの一生が証ししている様に、喜びを放出する事は人の顔に微笑みが浮かび、人の心に喜びが溢れ出る為に努める事です。それは人に希望を与え苦しんでいる人と共に歩み、助けを必要とする人に助けの手を差し伸べる事です。
信仰の喜びは気持ちの問題ではありません、信仰の喜びは神の望んでおられる事を行う事から生まれるものです。
「告白」という書物の中で聖アウグスチヌスは次のことを書いた事を皆さんもご存知のことでしょう。「主よあなたは私達をご自身に向けてお造りになりました。ですから私達の心はあなたの内に憩うまで安らぎを得る事が出来ない」と。
それを真似して言えば「人の幸せを願う神に倣って生きる様に努めなければ私達は真の喜び、特にイエスの復活から生じる喜びを味わう事が出来ない」という事です。神は人が幸せでいてほしい為に人を縛るもの、エゴ・欲望・悪・死から人を解放しようと思い人となられました。イエスの復活はその開放のしるしと実現です。復活祭の喜びは神の開放の業を信仰のうちに受け入れ、そして様々な形で自分の生活している場でそれに協力する事から湧いてきます。その努力を惜しまなければきっとイエスの復活を祝う日に微笑みは一段と美しく私達の顔を輝かせるでしょう。
2008年3月号
ベリオン・ルイ神父

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