アレルヤ(No.140)
アレルヤ。“ハツレル.ヤーウェ”。「神を賛美せよ」。
復活祭を始め、復活節の間に私たちは数え切れない程、その言葉を唱え、歌います。どうしてでしようか。それは、父なる神によってイエスが復活させられ、生きておられることを信じているからです。十字架の上で亡<なられたナザレのイエスは、実は人となられた神であるという信仰です。だから教会の典礼の頂点は、それを記念し祝う復活祭なのです。そのために昔から教会は、自分がキリスト者であると口にする人に、その最低のしるしとしてせめてその日に共同体の集いに参加することを要求してきました。しかし誰もがわかるように、最低のことをこなすことだけが信仰の目的ではありません。キリスト者として生きることは最高のことを目指すことを意味しています。
今年の復活祭を契機にして是非次のことについて考えるようにお勧めしたいと思います。
私にとってイエスの復活は何を意味していますか。自分の日常生活とどんな関係がありますか。
それを信じるか信じないかによって何が変わりますか、と。
*「イエスが復活して今生きておられる」。それを受け入れ、そして自分の生活と結び付けることはそれ程簡単なことではありません。実を言えばそれは今始まったことではありません。西暦50年代にコリントの共同体宛に書かれた手紙の中で、すでにパウロはそれに触れています。(コリントの使徒への手紙一15.12〜19)。パウロが言うように、イエスの復活は私たちの信仰の出発点であり、信仰の中心なのです。それなしにイエスと福音には何の意味もありません。それだけではなく、パウロが言うように、イエスと福音を伝えることはペテン師のように振るまうことになります。
*「イエスが復活して今生きておられる」。それを信じるということは、何を意味しているでしようか。言うまでもありませんが、それは単にその“宣言"に頭で賛同することだけではありません。イエスは父なる神に復活させられたとすれば、ナザレのイエスが身をもって神について述べたことは、正に真実となり、その教えは私たちの人生を意味付けるもの、その人生を方向付ける貴重な道しるべ、神の命をもたらすものになります。だからそれを信じるとすれば、私たちの言葉と生き方はイエスの復活への信仰を反映するはずです。
●イエスの復活を信じることは、想像を絶する豊かな勝れた命、神の命で生きることを言っています。
●イエスの復活を信じるということは、この地上でしるしを通してその命の種を蒔<ことだと思います。アツシジの聖フランシフコの平和の祈りにあるように、それは「憎しみのあるところに愛を、争いのあるところに和解を、分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに真実を、望のあるところに希望を、悲しみのあるところに喜びを、暗閣のあるところに光をもたらす」ことです。
私たち一人ひとりが出来ることは限られていますが、イエスの復活への信仰の内に生きて行こうとすれば、「寝起きして知らない内に」蒔かれた種が「芽を出して成長します。」収穫の時まで。(マルコ4.23〜26)イエスの復活を信じている私たちはどのようにして日常生活の中でそれを表しているでしょうか。それについて真剣に自分に問い掛けてはいかがでしょうか。時と場合によって私たちが人のために出来ることは、只単に心から微笑むことだけです。しかしその微笑みは、神の暖かい眼差しを表しているとすれば、それはイエスの復活への信仰のしるしになるのではないでしょうか。
今年も復活節の問に自分の顔と日常の生き方に美しい微笑みを浮かばせながら、声高らかにアレルヤを歌うことが出来るように心掛けたいと思います。
2007年4月号
ベリオン・ルイ神父
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