“平和の職人”になろう(No.120)

 「平和を実現する人々−“平和の職人”−は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5.9)
 文章を引っ繰り返せば、「平和を実現しない人々は不幸である。その人たちは神の子と呼ばれない」ということになることを、もっと意識する必要があるのではと思う時があります。
 今年も8月6日(土)から15日(月)まで、日本カトリック平和旬間が行われます。1981年故教皇ヨハネ・パウロ2世が広島で発表した“平和アピール”に由来している平和旬間は、今年で23回目を迎えます。
 23回目だから、平和に対する私たちの意識が高く、共同体の生活の中で、平和のために祈り、学び、行動することの是非が深く浸透しているでしょう。(…皮肉のように聞こえる方がいるでしょうか。)
 8月7日(日)小倉教会で行われる北九州地区の“平和の集い”に向かって、7月3日の子供たちを中心にした感謝の祭儀をもって、私たちの共同体は歩み始めました。一日のイベントでものが“片付けられない”ために、子供も大人も早くから準備に入り、せめて主日毎に、共に平和について考え、平和のために祈り、行動するように心がけてきました。世界の平和、平和の世界の実現は、私たち一人一人次第であることが新たに確認されたでしょうか。
 4月29日(金)菊地恵楓園に行き、久しぶりに何人かのハンセン病を患ったことのある方々に会いました。その時に、彼ら、彼女らが体験したことは、人と人、人種と人種、民族と民族、国家と国家の関係の「原型」として私の目に映りました。つい最近まで人の無知、偏見、恐怖心が“法律”によって正当化され、被害者だった人々が“法律”によって危険な存在と定められ、不幸な病人だった人々が“法律”によって犯罪者扱いされ、名前まで奪われてしまいました。現在はどうかといえば、ハンセン病を患ったことがある方々がおとなしく振舞えば“憐れみ”の的になるでしょうが、自分たちの人権が尊重されるよう訴えようとすれば、いつのまにか“嫌がらせ”の的になってしまいます。 − 隔離され、収容され、人間として生きる権利が根拠のない理由で奪われたハンセン病元患者。それを可能にした“法律”を作った政治家、それを執行した役人、それを黙認した国民。
 平和を妨げ、平和を築き上げるのに邪魔になることはすべて、ハンセン病を患った方々に対する人の態度や国の対策の中に反映されているような気がしてなりません。そしてそれは、故教皇ヨハネ・パウロ2世の「戦争は人間の仕業である」という言葉にこだまするかのように感じます。同時に聖書の始めに記載されている物語にある会話が頭に浮かんできます。“主はカインに言われた。「お前の弟アベルはどこにいるのか。」カインは答えた。「知りません。私は弟の番人でしょうか。」主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる。」”(創世記4.9−10)と。
 今年の日本カトリック平和旬間にあたって、今日(こんにち)のイエスの声である司教たちのメッセージに耳を傾け、“善意ある人々”と共に平和について学び、平和のために祈り、平和を実現するために行動しましょう。“神の子”と呼ばれたいのなら。
2005年8月号
ベリオン・ルイ神父

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