祈る木を心に植える(No.102)

 毎日祈る方がおられる一方で、「全く」「ほとんど」「たまに」しか祈らない方も大勢おられるようです。ところが、祈ることなしに信仰生活は有り得ないことを新たに認識すべきだと思います。
「祈る」。簡単に言えば、それは父なる神を迎えるために心を開き、父なる神の声に耳を傾けることです。

 祈ることを考える時、私達は無意識のうちにも「祈りの文句を唱える」と思い込んでしまいます。確かに、祈るときに「言葉」は役に立つのですが、場合によって言葉を唱えるには忙しくなり、言葉が邪魔になって、誰に向かって祈っているか、どうして祈っているか、その意識が薄く成りかねないのです。

 祈ることには「沈黙」は必要です。最近、教皇ヨハネ-パウロ二世が、“沈黙の大切さ”を思い出させる文章を発表したことは、皆さんの記憶にもまだ新しいことでしょう。しかしその沈黙に耐えることは、それ程簡単なことではありません。その「沈黙」を、神との出会いの場にすることは、尚更難しいことです。しかし「沈黙」のうちに神を迎える態勢を整えることこそは、心に祈る木を植えることだと思います。

 福音書によく書かれていることですが、イエスは度々夜中に、一人で祈るために山に退かれました。私達一人ひとりが神から与えられた使命を知るため、そしてそれを果たすことが出来るために、どうしても、イエスに倣って振舞うように心掛けなければなりません。
 それを考えると、感謝の祭儀の間の「沈黙」は、「沈黙」の意味と大切さを理解するために、手助けになるかもしれません。

・回心の儀の時の「沈黙」。
・“祈りましょう”。司祭から祈るようにと呼びかけられる時の「沈黙」。
・聖書の朗読の後の「沈黙」。
・説教の後の「沈黙」。
・聖体拝領後の「沈黙」。

 *回心の儀の時の「沈黙」
その間に、自分の信仰の歩みを振り返り、どこまでイエスの福音に相応しく生きたかを、静かに顧みる。

*“祈りましょう”の後の「沈黙」
その間に、参加している兄弟と心を一つにし、心を開いて集中して、信仰のうちに全世界の教会が祈る言葉を心にとめる。

*聖書の言葉が朗読された後の「沈黙」
その間に、神からの教えを理解し、味わい、黙想し、それに基づいて自分の生き方を新たに方向付ける。

*説教の後の「沈黙」
話は旨かったかどうか。沈黙の時間はその評価のためにあるのではありません。その間に、言われたことを自分の生活にどう当てはめれば良いのか。自分の心に響いた言葉をどう活かすかを考える。

*聖体拝領後の「沈黙」
その間に、信仰の糧であるイエスに力づけられたことに対して、自分のうちに感謝の心を養い育てる。又、兄弟との連帯を深め、自分が共同体の一員であることに対して、認識を高める。そして、もうすぐ兄弟と共に“世界に派遣される”自分は、その中で与えられた使命を果たす決心を再び立てる。

 感謝の祭儀の間の「沈黙」にちょっとだけでも触れるとわかるように、「沈黙」をもう少し大切にすれば、自分の心に祈る木を植え、丈夫に育てることが出来ると思います。

 ところが、“「沈黙」について話すためにこれだけの「言葉」が必要か”と皮肉っぽく思うようになった方がおられるかもしれませんので、このあたりでペンを置きましょう。
2004年2月
ベリオン・ルイ神父

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