求道者と共に歩む(No.115)

 10年も前から、毎週と言っていいほど、感謝の祭儀の終りに口で案内し、毎月“せいかぞく誌”に載せてきたお知らせがあります。それは、求道者の集まりのためのお知らせです。それをするには、それなりの理由があります。
 皆さんもご存知のように、教会にとって四旬節は求道者の季節です。四旬節の主日の典礼は、求道者を中心に行なわれていると言っても過言ではないでしょう。第二バチカン公会議以来、教会は自分の古い伝統を復活させ、教会共同体の参加のもとに、洗礼前に段階的に典礼を行い、入信希望者の上に神の恵みを祈り求めることになりました。教会共同体の参加のもとに行なわれる種々の祭儀を通して、入信(洗礼、堅信、聖体)希望者は次第に共同体の中に受け入れられて行くと同時に、共同体自らも宣教と回心の是非について新たに意識を高めることが出来ます。こうして教会共同体は、宣教活動と共に典礼行為を通しても、再びキリストの教会作りに励むことが出来るのです。
主日毎に様々な祈願を通して、入信の秘跡に向かって歩んでいる方々のために、又、その方々と共に共同体は祈るのですが、典礼において、特に三段階が大切にされています。入門式、洗礼志願式、入信の秘跡の祭儀です。
 
 私たちの共同体において、今年は入門式が去る2月13日に行なわれ、洗礼志願式は3月13日、入信の秘跡の祭儀は復活前夜祭の3月26日に行なわれます。共同体にとって、新しい兄弟を迎えること以上、大きな喜びがないと思います。それは、その共同体が本当に活きた信仰に生き、その共同体を通してイエス−キリストが証しされ、その共同体を通して聖霊が働いているしるしです。
 それにしても、私たち一人一人は、十分にそれに協力しているかということについて、自分自身を問いかける必要があるのかもしれません。
 その点においても、まだ多くの方は、司祭に依存してしまうのではないかと時々寂しい思いをします。確かに、イエスと教会の教えを紹介することは、司祭の嬉しい、重大なつとめですが、それは司祭にのみ任せることを意味しているのではありません。人を誘い、初心に戻ってその人と共にイエスへの道を歩み、もう一度求める心をもっと学ぶことの大切さを意識することは、信徒にも求められていることを忘れてはならないと思います。人の代父、代母になることは、いかに素晴らしく有難いことか、その経験はいかに大きな恵みであることか、皆さん、最近それについて真剣に考えたことがあるでしょうか。
 50年以上も前から、求道者と共にイエスへの道を歩み続けてきた私は確信します。キリスト者の人生において、これ以上の素晴らしい体験がありません。神に常に感謝せずにはおられません。教えることが出来ない程、そのおかげで神の不思議な業に触れ、それに対して感嘆し、イエスがまさに今も生きておられることを私は体験を重ねてきました。
 しかし、そのつとめを司祭にのみ任せるのではなく、皆さんもその掛け替えのない体験を味わうために、人を誘い、共に歩むように心掛けることの責任を思い起こしてほしいと思います。それによって必ず自分の信じ方が変わり、習慣や惰性のためにしおれていく信仰が豊かになり、イエス−キリストへの証しは更に確かなものとなり、教会作りは確実に行なわれるに違いありません。
求道者のために祈る共同体だけではなく、黒崎にあるキリストの共同体は、求道者と共に歩み、求道者へのアピールとなる共同体を目指すために、この四旬節の間に認識を高め、新たに努めてみてはと思います。
2005年3月号
ベリオン・ルイ神父

時を刻む典礼(No.114)

 新しい年に入ったばかりだというのに、四旬節はもうすぐ始まろうとしています。灰の水曜日は目の前です。(9日) “うそ...”とつい呟いてしまいます。頭の中で、クリスマスとお正月の楽しい思い出はまだ踊っているのに、その頭の上で灰を被りましょうと言われても、ピンと来るはずがありません。
 鈍さのために、惚ける可能性があるだけに、カレンダーに○を付けることを勧めたいと思います。まず、9日に○を付けましょう。灰の水曜日の感謝の祭儀に参加し、断食を行い、祈るためにより多くの努力をすることによって、意識して四旬節に入ることが出来るために。そして黙想会が行なわれる18日(金)から20日(日)までの日々にも○を付けましょう。積極的にその黙想会に参加するように時間を作ることが出来るために。
 私たちの信仰生活において、それらは一種の修行だといっても過言ではないでしょう。柔道や剣道、茶道などには「道」という字がついています。それらの「道」を極めるためには長い努力を必要とするのは、皆さんもご存知の通りです。そしてわざを身に付けようとする人は、良い先生に導いてもらう必要のあることも、おわかりいただけると思います。「道」である福音に従って生きるためにも、絶え間ない努力が求められ、「道」でもありながら「師」であるイエスの導きがいかに必要であるかを、私たちは常に意識しなければならないと思います。典礼を通して、イエスは私たちを導き、その都度その都度、私たちに新しいことを発見させ、私たちの信仰を成長させます。また、黙想会を通して、イエスは私たちを養い育て、私たちの歩みを確かなものにします。人間はその生きていく過程において、全く何の問題意識も持たずに過ごしてしまうことがよくあります。問題意識や疑問が生じていても、それに目をつぶり、避けて通ろうとすることもしばしばあります。また、何の前触れもなく、突然目の前に現れる人生の岐路もあります。しかし無関心、逃避、油断は思いがけない時に落とし穴になってしまうことを忘れてはなりません。イエスの導きに従って生きるための努力の大切さを改めて認識したいと思います。
 2月は、典礼と黙想会、顧問会などのため、3月は共同回心式や聖週間のため、聖書の分ち合いの集まりはお休みになるからこそ、四旬節の間、個人的にいっそう祈り、聖書を読み、共同体として典礼と黙想会に参加することを心掛けていただければと思います。
2005年2月号
ベリオン・ルイ神父

愛なる父に身を委ねて(No.113)

 皆さん、新年あけましておめでとうございます。
2004年が終り、2005年にはいりました。古い衣類、古い靴などを捨てる時、“ずいぶんお世話になったな”という気持ちで手離したとしても、新しい物がすぐ古い物を忘れさせてしまいます。しかし、古い年は古い着物と違って、完全に消えるのではありません。前の年に色々なことを経験し、平凡な一年間にも印象に残った日や出来事があって、私たちは知らず知らずのうちにそれによって影響を受け、多少変わってきました。「見ざる聞かざる言わざる」のお猿さんなら、過ぎ去った一年で全然変わりがなかったでしょうが、過ぎてしまったこの古い年は、否応なしに私たちの身についてしまったのです。同じようにこの新しい年も、私たちの身についてしまうでしょう。その途中で、自分で行なった出来事があれば、神しか知らない想像以外の問題も起こり、そこで私たちは試練に遭うかもしれません。競馬場、競輪場、ボートレースで賭けをすると、勝ちか負けかはっきりとしますが、時の流れとそれに伴う喜びと悲しみ、成功や失敗、幸福や禍は、賭けではありません。時の使い方、事の受けとめ方によって、そのどちらでも得になる可能性があれば、そのどちらも損になる可能性もあります。たとえ私たちはすべての面において自分の思うままに物事を運ぶことが出来ないにしても、私たちは盲目的な運命の操り人形になっているのではありません。
 今年の初めに、イエスの次の言葉を心の中で深く刻みたいと思います。「思い悩むな...空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だがあなたがたの王の父は鳥を養ってくださる。あなた方は鳥よりもはるかに価値あるものではないか。」と。(マタイ6.25−26)思い悩む理由は、私たちにはいくらでもあります。今年も思いがけないことのために、その理由が増えるかもしれません。しかし、そのために落ち込み、失望するどころか、それを父なる神にもっと身を委ねるチャンスにしてはいかがでしょうか。それは決して逃げること、あきらめることを意味しているのではありません。それは父なる神が、ご自分の腕の中で私たちを抱き、ご自分の胸のぬくもりで私たちを包みたいことを意識することです。それは自分に要求される努力を怠ることを意味しているのではありません。それは父なる神の手を強く握れば、私たちの足取りが軽快になり、私たちの歩き方はもっとしっかりしたものになることを意識することです。
 マタイによる福音書の中で慰めとなる頼もしい言葉があります。「疲れた者、重荷を負う者は誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよ。私の軛を負い、私に学びなさい。そうすればあなた方は安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」と。(マタイ11.28−30) 私たちが悩み、苦しみ、病気を患い、不幸に会うことを免れ、辛い思いをかならず避けることが出来ることを、イエスは約束したわけではありません。ただそれを共に背負うことをイエスは約束しました。イエスは軛の、最も重い部分を背負うから、私たちの負担が軽くなります。そこまで父なる神は慈しみと思いやりをもって、私たちと共におられることを切望しています。しかし神は決してご自分の存在を押しつけようとしません。「見よ。私は戸口に立ってたたいている。誰か私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう。」と。(黙示録3.20) 戸を壊してまで、神は勝手に私たちの中に入るのではありません。迎えられ、そして交わりの最高のしるしである食事を私たちと共に分かち合うことが出来ることを信じて、神は辛抱強く私たちの招待を待っています。それはナザレのイエスを通して私たちに告げ知らされた愛なる父なる神です。
 皆さんもご存知のように、2004年10月から始まった「聖体の年」は2005年10月まで続きます。神との交わりの最高のしるしであるその食事に参加することによって、愛なる父に見を委ねる決意を養うようにしてはいかがでしょうか。
皆さん今年もよろしくお願い致します。
2005年1月号
ベリオン・ルイ神父

沈黙に秘められた叫び(No.112)

 毎年のことですが、この季節になると私たちの身の回りには「クリスマス」という言葉があふれて飛び交っています。商売の上でも重要な時期であり、商店はあの手この手でムードを盛り上げようとしています。色々な団体も、このチャンスを逃しません。十二月に入ると、教会にはクリスマスの寄付をあおぐ郵便物が山ほど届きます。
 しかし、イエスの誕生の現実の姿は、そんなクリスマスムードにそぐわない厳しいものでした。マリアに驚きと共に人生の計画の大きな変化をもたらした突然のお告げ。マリアの妊娠に直面したヨセフの混乱と苦悩。ナザレからの苦難の旅。旅路途中の出産。ヘロデから逃れるための逃亡生活と外国での滞在。皆さんもご存知の通り、イエスの誕生の現実はこのように今のクリスマスムードとは無縁のものでした。

 私たちは、いざとなると金持ちに深いお辞儀をし、実力者にお世辞を述べ、強い者に親切にします。そして、貧しい人をあごであしらい、弱い者を無視し、病気の人、アルコールなどに依存する者に冷たい。イエス-キリストを信じると口で宣言しながらも、私たちの生き方の中で、矛盾したことが次から次に吹き出てきます。
 ところが約束の救い主、神の御子は、人間の前で頭を下げました。厳しい状況の中で人間として生まれる程、目立たない職人の生活を送る程、一人の弟子に裏切られる程、悪人と誤解されて奴隷の死刑を耐え忍ぶ程に。しかし「沈黙」にたとえることの出来るその状態に、神の「叫び」は「秘められて」いました。残念なことに、人はそれに気づきませんでした。気がつかなかったせいか、それともまさかと思ったかわかりませんが、とにかく、多くのユダヤ人の信仰の対象は、昔の懐かしい思い出と、未来への夢で、現実を生かしていない状態だったので、素通りして、イエスを歓迎しませんでした。

私たちの場合はいかがでしょうか。

聖書に出る昔話を憶える程度なら、信仰ではありません。聖書の言葉を教義にすることも信仰ではありません。クリスマス-イブに教会に行って、若き時代の懐かしい思い出を復帰させようとすることはあいにく信仰の影にもなりません。信仰は感傷的なムードでは成り立ちません。およそ二千年前に生まれた赤ん坊は、闇の中に輝く光でした。彼はの源でした。、その光と命の主を迎えることは、イエスと一緒に周りの人々に希望と生きる目標をもたせ、本物の思いやりをもって隣人の苦しみに接し、行動に移すことです。それは声を出すことのできない人々の「沈黙」に「秘められた神の叫び」に耳を傾けることです。

以前聞いた話によると、終戦後、「クリスマス」を「クルシミマス」と読み替える冗談がはやったそうです。なるほど、よく考えてみると、その冗談の中に意味深いことが潜んでいます。しかしそれに気づくために、私たち一人一人には「回心」することが必要です。

飼い葉桶の中で、初めて響いたイエスの産声は、十字架の上で大きな叫びのうちに消えて行きました。その声は「回心」を呼びかける声でした。待降節の間、特に12月15日行なわれる共同回心式の日に、今年のクリスマスを相応しく迎えるために、その声の叫びかけに耳を傾けたいと思います。
2004年12月
ベリオン・ルイ神父

「鏡」としての聖書(No.111)

人類が初めてその顔を映した鏡は、清らかな水の面でした。しばらくして金属が発見され、表面を平らに磨くと、顔が映ることが知られるようになりました。ガラスによる鏡ができたのは近年になってからのことです。

人は自分の顔を一生自分の目で見ることは出来ません。そのためでしょうか、皆、鏡を使って自分がどのように人に見られているかを確認したがります。

鏡は、女性がお化粧する時によく使いますが、ひげを剃る時に男もよく使います。そればかりでなく、自分の顔色を確認したり、時には鏡に向かって怒ったふりをしてみたり、微笑んでみたりもします。鏡は、その都度をそのままに映し、自分の顔の変化を見せてくれます。自宅ばかりでなく、出かけた先でも、乗り物の中でも、女性のハンドバッグの中からは、小さな鏡がよくでてきます。
そう書いている私も、自分の書斎にいる時は全く気にしないのに、出かけることになると、ちらっと自分の姿を鏡で確かめます。どうでもいい年になったというのに、まだ自尊心はありますので、みすぼらしい格好をしたくないというのが本当の所です。

 どうして「鏡」の話をしているのかと思う方がおられるでしょう。それは「心の鏡」「信仰の鏡」について少し考えていただきたいからです。

 *自分が相手にする人間すべてが「心の鏡」です。親、兄弟、隣人、職場の仲間、教会の同胞、生きた人間が「鏡」です。人は本質的には、相手の顔よりも精神的な姿と性格と真実に興味があると思います。たとえば、私が相手にする人は、私の姿態より、そして私の口からでる言葉より、私の日常の振る舞いを観察しています。その観察によって得られるもので、その人の私に関する価値観が決まります。そしてそれは、私がどんな人間であるか、私自身にも間接的に知らせてくれることになるのです。

 *鏡は、-皆さんもご存知のように- もう一つあります。そうです。「神」という「鏡」です。具体的に言えば、神の言葉です。太陽の光線を鏡に反射させると、合図することが出来ます。聖書、神の言葉は正しさにその役割を果たしています。神の言葉を読み、黙想すると、私の信仰生活はどうなっているかがすぐはかることが出来ます。いやになる程、その鏡は正直に木目細かく、自分の「信仰の顔」を映しています。じっとその鏡を見つめると、手からペンが落ちてしまいます。老けて見える、しわだらけ、早急にリフティング(美容整形)を求めている顔。

皆さんもお考えになったことがあるでしょう。

“神の言葉”という「鏡」に映る自分の「信仰の顔」はどうなっているのかって。“私は聖書を読まないからわからない”という答えは、厚化粧と同じように、ごまかしに過ぎません。
2004年11月
ベリオン・ルイ神父

第16回聖家族の集い(No.110)

『大学を出て五年経っていました。その男のお父さんは建設会社の社長さんで、息子を独立させようと思って新しい会社を作ってあげました。最初のお客さまは、お父さんの昔からの親友で、金持ちの銀行家でした。彼は設計図を若旦那に渡し、「君に良い家を造ってもらいたいのです。予算はかまいません。最高の材料を使ってほしい」と頼みました。ところがその息子はお父さんの親友を、ねぎを背負ってきたカモにしました。どうせ銀行家は建設のことはわかりはしないだろうと思って、彼は安物の材料ばかり使用しました。とても便利な新建材があるので、上等の家に見える建物が出来上がりました。建設中、銀行家は信用して監督もせず、まかせっぱなしでした。言うまでもなく請求書は高額でした。お父さんの親友は、家の鍵をもらい次第、その場で小切手を切りました。それに家の鍵をのせて、建物を見にも行かずに、若い旦那さんに「はい、どうぞ、この家は君にあげるプレゼントです。いつまでもその家で幸福な生活を送ってください」と言いました。』

 “こんなばかげた話があるわけない”と皆さんも思うでしょう。確かにそれは単に作られたたとえ話です。それにしてもこの物語から学ぶことがあるのではないかと思います。

自分のキリスト者としての人生、イエス-キリストの共同体を築き上げるために、私達は神から知恵と自由を与えられ、イエス-キリストとその福音を委ねられました。ところが、物語の“息子”と違って、それは私達の住まいを築き上げるためだ、とわかっていながらも、私達は値切って値切って、安い材料を使ってしまっているのではないでしょうか。言い換えれば、その“住まい”を築き上げるために、必要な努力を怠っているのではないかということです。

10月17日、第16回聖家族の集いを迎えます。それに協力し、それに参加することによって、主日の感謝の祭儀に、私達が口で宣言していることは実現することを祈ります。私達は行事をこなす意味ではなく、兄弟として交わり、私達の共同体はイエス-キリストの“住まい”となることによって、神の国の到来が告げ知らされること、今年の聖家族の集いもそのひとときとなることを期待しながら、皆さんをお待ちしています。
2004年10月
ベリオン・ルイ神父

一つの物語から学ぶ(No.109)

 十八世紀のこと。ぜいたくざんまいに毎日を暮らず貴族がいて、華やかなレセブシヨンをしょっちゅう開<ことで有名でした。彼は一匹の熊を飼っていて、宴会に集まった人々にスリルを与えようと、お客さんたちがいい機嫌になった頃を見計らって、熊を引っ張り出していました。部屋の隅には、はちみつのはいった皿が用意してあって、はちみつが大好きな熊はお客さんには目もくれず、臭いのする方へ走っていきました。ところが責族は意地悪<もそのはちみつを熱く煮ていました。熊も最初はためらっていましたが、ついに貧食に抗しきれず、なめ始めました。「あつものに懲りて、鱈(なまず)を吹く」ということわざを熊には意味が通じてなかったようでした。恐ろしい剛え声を出しながらそれでもはちみつをたいらげるまでやめません。そして口の中のやけどが治るまで苦しい一週 間を断食しなけれぱなりませんでした。  皮肉な悲観主義の貴族は人生をけなすつもりで「人間だってこの愚かな熊とかわりはしない。自分の害になること、それをはっきり意識しながらもやらずにおれない。自分で自分の首をしめるのさ」と言いたかったでしよう。 その物語は作り話か本当の話かわかりませんが、いずれにしてもその物語の熊から学ぶことがあると思います。  私達が幸せへの道を歩むことが出来るために、慈しみ深い父なる神はイエスを通して最高の道、安全な道を案内して下さいました。しかし、“大好物”に見えるものを得るために、場 合によって私達はまったく違った道を走ってしまいます。しかし罪を犯し、善を怠ると、結果的に一番先に損をするのは私達自身です。自分の不幸を自分の手で作り、自分の苦しみを自分で増し、自分の裁きを自分で行ってしまいます。ところがそれを認めたくないため、自分にあまえて自己弁解を見せびらかし、他人のせいにすることがよくあります。その悪循環から脱するためにイエスが案内した道に戻ることしかありません。それには努カと勇気が必要ですが、卑怯に逃げるよりもその方法がはるかにキリストを信じる人に相応しい態度です。  “熊さん、この話の落ちをどう思う?” 2004年9月 ベリオン・ルイ神父

平和旬間にあたって-真の平和の実現のために働こう!-(No.108)

 日本カトリック司教団は、1982年(S.57年)6月に「平和のために行動する機会として」、8月6日~15日の時期を「平和旬間」と制定しました。期問中、私たちは人間として、そしてキリストの生き方をしようとする者として平和のために働く使命を帯びていることを再認識しなけれぱなりません。
 イエスが生まれた時に、人類にメッセージがありました:「地上に神のみ心に適う者に平和あれ!」と。「み心に適う者」とは、ただ、神のみ旨を行なう人という意味ではありません。「み心に適う者」他の言い方で言うと「神が心にとめている人、大切にされている人」とは「貧しい人、圧迫されている人、社会の隅に追いやられている人、命が粗末にあつかわれている人」のことです。神はこのような人々に私たちを通して平和をもたらしたいのです。

 「平和」は、ヘブライ語(イエスが使っていた言葉)で「シャローム」と言います。「シャローム」は物事の“充全性”を表す言葉で、“傷ついた部分のない状態”を意味する。国や民族の大多数の人が幸せに暮らしているとしても、もし、少数であっても、抑圧されたり、差別されたり、軽んじられたりされている人々がいるなら、そこには平和はありません「平和のために働<」ということは、社会の底辺にいる人々、差別を受けている人々、見捨てられている人々に近づいて彼らが尊敬され、彼らが自由と喜びを思いきり味わうことが出来るように働<ことです。 インドの独立のために命をかけたヒンズ教徒で非暴カ主義のガンジーは平和について次の言葉を残しました。 「戦争がなくならず、飢え渇く人々がいる限り、キリストはまだ生まれて来ない」。 8月8日に小倉教会で行なわれる『平和の集い』に参加し、そこで出される平和へのアピールを受けとめて、私たちのまわりにいる人々の間に平和の実現のために働きつづけたいものです。 2004年8月 ア・キニュー神父

バベルの塔の黄昏…ペンテコステの夜明け(せいかぞく誌「100号」を迎えて)(No.107)

 バベルの塔の黄昏...ペンテコステの夜明け。その謎めいた標題を通して、私は何を言おうとしているのか。それは、せいかぞく誌「100号」と一体どういう関係があるのかと首をかしげて思う方がおられるでしょう。

* バベルの塔の話(創世記11.1~9)を読むと私の頭の中で -勝手な解釈に過ぎないかもしれませんが- その話はどうしても「同一」のシンボルとして映っています。“人々が皆一つの民として同じ言葉を話し、同じ材料を使って天に届く一つの塔を建て、有名になろう”として神に挑戦しました。ところが、その人間の考えは神の考えに副わなかったため、神は”全地の言葉を混乱(バラバラ)させました。“と。(創世記11.9)神は人間を創造した時に、人をクローンのように作ったのではありません。神が考えておられる人類の「一致」は、「同一」とは違います。だから、神を信じる民は、同じ制服を着る人形のコレクションでなければ、同じ思想に服従する集団でもありません。神の民の理想的な姿は、盲目的に命令に従う軍隊とは違います。

* 「同一」のシンボルであるバベルの塔の話に反して、ペンテコステ -聖霊光臨- (使徒言行録2.5-12)の話は、「一致」のシンボルになっていると思います。“当時知られていた国々からエルサレム(神の都)に集まって来ていた人々は、それぞれ言葉が違っていましたが、一人一人の心の中で確実に、神の声が響き、福音の言葉が通じました。”それで、人の自由意志によるイエス-キリストの共同体が誕生しました。神の民に加わる人々は、多様性を活かしながら、父である神への信仰のうちに交わり、イエスと共にイエスに倣って生き、聖霊に派遣され、豊かな共同体、虹の色の共同体を築き上げようとしています。その共同体が目指す「一致」は、「同一」とは全く無縁です。なせなら、「同一」は神のみ心に背いているからです。
天才なパウロは、“体のたとえ”を通してそれをわかりやすく説明しました。(コリントの信徒への手紙第一12章12~31) そのたとえのおかげでわかることは、私達は、バベルの塔の時代の人ではなく、ペンテコステの時代の人でなければなりません。
イエス-キリストの共同体にはいっている私達は、様々で、それぞれに委ねられた使命は違います。同じ鋳型にはめられたのではないため、多様性を尊重することは、最も大切なことです。だから、お互いに認め合い、理解し合い、受け入れ合うように努力しなければなりません。そのおかげで、共同体は、神の豊かさを反映することが出来ます。
イエスは弟子たちを、二人づつ宣教に遣わした理由はそこにあると思います。目的はお互いに監視し合うことではありません。それは、一人だけで、イエスとその福音の素晴らしさと豊かさを十分に伝え、証しすることが出来ないからです。補い合うことによって、イエスの真の姿を、いくらか人々の目の前で浮かばせることが出来ます。

* 私は「せいかぞく誌」に期待していることは、黒崎の共同体の多様性の豊かさを反映し、そしてそのような共同体作りに役立つことを心掛けることです。
もちろん、「せいかぞく誌」は、小さな手段に過ぎず、素朴な道具ではありますが、その目的は計り知れないものです。
「せいかぞく誌」を発行し始めた方々、今日それを続けている方々に感謝しながら、先程描いた夢が叶えられることを、心からお祈り致します。

「せいかぞく誌100号」皆さん、おめでとうございます。
2004年7月
ベリオン・ルイ神父

より良い宣教を目指して(No.106)

 来る七月の初めに、パリで、パリ外国宣教会(パリ・ミッション会)の総会が開かれます。六年に一回行われる総会に出席する司祭達は、各国で仲間の司祭達から選ばれた人達と、様々なところ -特にフランスの本部 で働いている司祭達です。
日本管区から代表者の一人として選ばれたため、総会に出席するために、しばらくの間留守することになります。去年の夏、休暇を取ったばかりなのに、又今年も...と考えると、何となく心が重くなり、皆さんに対して申し訳ないと思います。皆さんのご理解とご了承をお願いすることしかありません。

黙想会をもって始まる総会は、およそ一ヶ月続きますので、八月の初めに日本に戻る予定です。
その総会の内容ですが、各国と様々な分野で働いている人達の報告 ~政治、経済、社会、教育、他宗教、教会、そしてもちろん宣教に関する報告~ に基づいて、パリ・ミッション会の存在の意味と方針が討議され、今からの六年間の活動が定められます。21世紀においてグローバル化しつつある世界の中で、複雑な状況に置かれているアジアの社会の中で、どのようにして私達は、イエスとその福音を相応しく伝え、証しすることが出来るか、それは私達の祈りと働きの中心になります。

尚、高年齢化している宣教会ではありますが、そのことで嘆き悲しみ、落ち込むつもりはありません。希望をもって大いなる期待をかけて、若者へのアピール、若者を歓迎するため、対策に重点を置き、回心しながら、工夫しながら、前向きに定まった目的を貫こうと考えています。
総会の終わりに、その方針、そのビジョンを実現出来ると思われる総長を始め、パリ・ミッション会の責任者が選挙によって選ばれます。その選挙こそ、聖霊の選択であると私達は確信しています。

 二百五十年近くの歴史を誇る宣教会の運命に、大きな影響を及ぼす総会のことを考えると、何となくこの頃、責任を重く感じるようになりました。
 留守をして迷惑をかけるのに、又、皆さんにお願いするのは厚かましいと思われるかもしれませんが、その総会は、聖霊に照らされ、父なる神のみ旨にかなう会議となるように、皆さんのお祈りを謹んで願いたいと思います。

 どうか皆さん、よろしくお願い致します。
2004年6月
ベリオン・ルイ神父