復活したイエスを信じるってなぁに(No.104)

 フランスの知り合いの女性が、輪廻転生を信じていると以前から言っているのですが、それに対する彼女の理解はあまりにも単純すぎているため、たびたび楽しい議論を繰り返してきました。先日の電話で、冗談のつもりで、私は彼女に次のことを言いました。「君は死んでから草になるとすれば困りますよ。だって私は牛として再び生まれたら、君を食べてしまうかもしれません。いやよ」と。おかしな話ですが、輪廻転生に対するその知り合いの女性の理解のレベルと、復活に対する一部のキリスト者の理解のレベルは、差ほど変わらないかもしれません。

 私達が死んでから、どうなるのでしょうか。それに対して好奇心を持つことは不思議なことではありません。そのためでしょうか。「天国」と「地獄」について、人は豊かな想像力を活かして、様々な話を作りましたが、それは物語であることを忘れたら困ります。福音書の素朴さに倣う必要があると思います。イエスが生きて現われると、その人がイエスであることを弟子達はわかりませんでした。正にその通りでなければなりません。そうでなかったとすれば、イエスは亡くなっていないことになるからです。イエスは生きておられるとすれば、今から、しるしを通してしか出会うことができません。傷痕を見せたイエスの話がありますが、それは、生きて現われた人と、十字架の上で亡くなられた人は、同じ人であることを教えている話です。「イエスが復活して生きておられる」、そのことは信仰の対象でありながら、それは生活の中で体験することの出来ることです。

 空を飛び回る鳥を見るといつもその美しさに見とれていますが、よく考えてみれば、鳥には二つの翼があるからこのように優雅に舞うことが出来ます。復活への信仰においても、翼が二つ必要だと思います。一つは、証人であるイエスの弟子達の証言を受け入れ、もう一つは、今の私達の生活の中で、生きておられるイエスに出会うことです。ところが、頭では一つ目を受け入れたつもりでも、もう一つ目を体験しているとは限りません。弟子達は、生きて現われた人がイエスであることを、最初はわからなかったのと同じように。
復活して生きて現われるイエスの姿は様々です。マタイによる福音書の25章31-45が紹介しているように。

 今年の聖土曜日の夜、15名の方が私達の共同体に加わりますが、それは、イエスが復活して今生きておられることのしるしではないでしょうか。そのようなしるしはいくらでもあると思いますが、私達の信仰の目は、そのしるしを読み取ることが出来るでしょうか。
イエスの復活を信じるということは、私達が死ぬときにイエスは私達をお迎えし、私達に永遠の命を与えることを信じることを意味していますが、私達は本当にそれを信じるとすれば、日常生活において、私達も復活して生きておられるイエスを迎えるように心掛けるはずです。そうでなければ不公平ではないでしょうか。イエスご自身がそれを指摘したことを思い出す必要があるかもしれません。

「誰でも人々の前で自分を、私の仲間であると言い表わす者は、私も天の父の前で、その人を私の仲間であると言い表わす。しかし、人々の前で私を知らないと言う者は、私も天の父の前でその人を知らないと言う」と。(マタイ10、32-33)
2004年4月
ベリオン・ルイ神父

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