エルサレムへ上ろう(3)(No.132)
ユダヤ教の暦で、私たちは5766年4月22日安息日にタバからイスラエルに入りました。−イスラエル−信仰の歴史を語る遺跡の地。数千年もの間、カナンの地は“肥沃三日月地帯”の中心にあったために、隊商が往来する貿易のルートでしたが、大帝国、南はエジプト、東はアッシリア、バビロニアとの間に挟まれていたため、度々侵略され、荒らされました。戦争、疫病、地震。古き時代の遺跡を発見するために深く掘る必要がありますが、運も手伝えば脅威の目を見はらせるものが出土します。
旅の順に従って…
* −「マサダ」−。死海の西側に海を見下ろす山の上で、ヘロデ大王(紀元前37年〜4年)によって占領し難い要塞が建てられました。その中で立派な宮殿と美しい入浴場の跡が目に映ります。ユダヤ戦争(大反乱66年〜70年、132年〜135年)の終りに、バル・コクバの指導に従っていた熱心なユダヤ教徒はマサダで避難し、ローマ軍に降伏するよりもお互いに殺し合うことを選びました。“マサダ・シンドローム”(マサダ症候群)。今でもユダヤ教の正統派(元ファリサイ派)はその精神を称え、イスラエルの兵士はここで絶対に降伏しないことを誓います。
* −「クムラン」−。ユダの荒野へ紀元前2世紀の終り頃、ユダヤ教のエッセニア派の人々は死海の辺りに住み始めました。紀元前31年頃、大きな地震が起こったため、一時その地を離れましたが、イエスの時代にここに戻り、68年にローマ軍から追い出されました。再び歴史の光を浴びたのは1947年です。その辺りの洞窟の中で、聖書の巻物が発見された時です。その“死海写本”のおかげで、エッセニア派の人々の生活、信仰の内容を知ることが出来ました。発見された旧約聖書などの掛け替えのない貴重な写本は今、エルサレムの博物館に保存されています。尚、洗礼者ヨハネはいくらかそのエッセニア派の影響を受けたと考えられています。
* −「エリコ」−。“なつめやしのオアシス”海抜下250メートル、ヨルダン川まで8キロ、死海まで10キロ、エルサレムまでほぼ20キロ、6千年の歴史を誇る町、世界で一番古い町と言われています。ヘブライ人は約束の地に入った時(ヨシュア記6)エリコはすでに1500年も前から廃墟になっていました。その町の素晴らしい遺跡から2キロ離れたところで、イエスの時代に遡るザカイのいちじくぐわが(ルカ19.1〜10)観光客を待っています。
* −「メギド」−。東はメソポタミア、南はエジプト、西はフェニキア、北はシリアへ行く道の交差点。メギドは紀元前5000年も前からイズレエルの平野を見守る砦でしたが、ファラオによって(紀元前926年)アッシリアの王によって(紀元前732年)再びファラオによって(紀元前609年)町が次々に滅ぼされたために、イスラエルの中で、メギドは不幸、世の終りのシンボルとなりました。黙示録の中でヨハネはその名前“ハルマゲドン”(メギドの山)を通して、悪の上での神の決定的な勝利(黙示録16.16〜)を預言しました。
* −「カファルナウム」−。シナゴーグの跡。そのシナゴーグでイエスは人々の前で話されました。
* −「カイサリア」−。ローマ時代の印象的な遺跡。ここでピラトの名前が刻まれた碑は発見され、ここでペトロと「イタリア隊」の百人隊長コルネリウスとの出会いのおかげで、初めて異邦人はキリスト者になり(使徒言行録10)、ここでパウロは2年間(使23.22、24.24〜27)監禁されました。
* −「エルサレム」−。イエスの時代のベトザタの池(ヨハネ5.1〜9)、キデロンの谷を渡ってカイアファの家に導く階段、イエスが一夜を過ごした牢獄(ヨハネ18.24.28)、ピラトの官邸のリトストロトス(ヨハネ19.13)。その遺跡はイエスの環境を蘇らせます。
興味深く聖書の新鮮味を味わい、夢と現実の間にさまよいながら、それぞれの遺跡を回ってきました。嘆きと感謝の祈り、血と汗、敗北と勝利、滅亡からの復活、歴史の光と影を目にして、私は確信しました。神は歴史の中で人と共に歩み、今もまさに“インマヌエル”である、と。
(続く)
2006年8月号
ベリオン・ルイ神父
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