不思議ですね(No.143)

 最近読んだ話から。。。
* 私たちは神を父と呼び、イエスを友と呼ぶが彼らを自分たちの生活に受け入れ難しく感じる。
* 私たちは福音を理解し、他人に話すのに困難を感じるが、他人に関する悪口を簡単に理解し広める。
* 神に仕える一時間が長く感じるがTV番組を見て、短く感じる。
* 野球の試合が勝負決定のために延ばされるとわくわくするが、説教は普通よりも少し長くなると不平を言う。
* 聖書の一章を読むことが大変だと感じるが、二百ページのベストセラー小説を読みやすく感じる。
* コンサートの時私たちは前の席を奪い合うが、教会の典礼に参加する時、後ろの席に座る。
* 金曜日の晩に遅くまで催されるものを楽しみにするが、日曜日の朝の礼拝に参加するための早起きを嘆いている。
* 私たちの罪が小さなものに見えるが、他人の罪はどれほど重大なものに見えることか。
* 他人が厳しく裁かれることを要求するが、自分たちは慈しみ深く扱われるように切望する。
* 私たちは迷う時全く知らない人にでも道を尋ねるが、人生の道を歩むために神に尋ねることを忘れる。
* 自分たちの願いごとを神に聞き入れられることを求めるが、神の勧めを聞きたがらない。
* 世界における一切の不幸や苦しみの故に神を非難するが、一切の嬉しいこと楽しいことを感謝しない。
* 具合が悪くなる時私たちは「主よ、なぜ私に?」と叫ぶが、調子の良い時それを神に結び付けようとしない。
−不思議ですね!−
 
 不思議なことなのにそれは当たり前のことになっています。いかに自己中心的に生き、いかに都合のいいように私たちは振舞っているかということです。信じていると宣言しながらもその信仰は実生活においてそれ程影響を及ぼしていません。 
 私たちの日常生活の中で神とその言葉はどの位置に置かれているか、今の私たちの信じ方はこれでいいのか、それについて真剣に考えるために時には“時の流れ”を止める必要があります。祈る時間はそれなのです。一日の内に祈る時間を設けることは宗教的な義務を果すことであるより先に、人間として、神の子として自由に生きるための条件です。 
 一日の生活の中で、私たち一人ひとりがその祈る時間を作るためにどれだけの努力をしているでしょうか。 
 ここで「努力する」という言葉を使うことも又不思議ですね。デートに行く恋人が“努力する”のでしょうか。もしそうだとすればそれは愛情が冷めたしるしになっているのでは。。。
2007年7月号
ベリオン・ルイ神父

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