結婚?(No.155)

神に似せて創造された男と女は、その人格的な交わりの深さによって永遠に結ばれることが出来、それによって神の人類に対する愛、教会に対するイエスキリストの愛の美しさと忠実さを人の目に焼き付けています。(5月号参照)
教会の結婚に対する教えをあまりにも要約しすぎている以上の言葉は確かにすばらしい理想を描いているのですが夫婦の関係は二人の違った人間の関わり合いであるだけに全ての夫婦はそれを成し遂げることが出来るとは限りません。夫婦の一致を目指すために全力を尽くすことを求めることは当然の事ですが、“教科書通り”旨く行かず理想を実現することは不可能になった時何をすればいいのでしょうか。
人は冷静に判断することの出来る時があれば感情、しかも激しい感情に駆られる時もあります。人の心と感情、エゴと欠点、人がぶつかる厳しい現実のため二人の関係は理想から手の施せない程遠く離れてしまった時何をすればいいのでしょうか。破綻の状態に陥った夫婦の苦痛に対して奇麗事を並べる事だけで答えになるのでしょうか。暴力は振るわれ脅えて毎日を過ごし人間として尊敬されることなく惨めな生活を送るとき、遊ぶ事が癖になり借金に追われ不安と涙の日々が続く時、夫婦の愛はどうなっているのでしょうか。別居して二度と一緒になる可能性がなく、努力を尽くしたあげくどうしようもない状態に至った時、夫婦の一致は何を意味しているのでしょうか。悩んだり苦しんだり、絶望のどん底に沈んだ時、教会から“再婚は許されない”という忠告しか得られないとすれば、人はそこで神の憐れみ、イエスによる救いを見出すことが出来るでしょうか。結婚生活は失敗に終わり一生消えない傷跡を隠して生きて行く人達に何をどのようにして再び希望への道を案内する事が出来るのでしょうか。
嵐の後虹が出るように、再婚という形で幸せが訪れようとする時、教会から“駄目です”という容赦のない冷たい反応しかなければ教会の教えは「背負うことの出来ない重荷」(マタイ23.4)になるのではないでしょうか。徴税人や娼婦にとってイエスの言葉は福音でしたが実際に人を破門し公の罪人のように人を扱っていると見られる時、教会は救いの嬉しい知らせを聞かせているでしょうか。苦しんでいる人の助けにならなければ教会の言葉は神の慈しみ深い暖かい愛を伝えようとしているでしょうか。
この「一言」を読んでいる皆さんが飽きてしまう事を覚悟してここまでの殆どの文章を“のではないか”、“でしょうか”という形で結んできました。それは誰を頼りにすればいいのかと悩み苦しんでいる方々に会う時に私の頭と心にいつもといっていい程それらの疑問が浮かんでいるからです。人は掟の為にあるのではなく、掟は人の為にある、その言葉は常に私の耳に響いています。
教会の教えという盾の後ろに身を隠し逃げることは簡単?な事ですが、イエスはここにおられたら何をなされるのかと必死に考えた方はたとえ答える事が難しくても、苦しんでいる人の前で希望の光を輝かせ、救いの道を開く事は可能な事になるのではと思います。
確かに吟味した上で正しく判断し、慎重に行動する必要があるでしょうが、事実上夫婦はもう存在せず元に戻る事がもう有り得ないと確認された場合再婚を許さず、信仰の道を塞ぎ御聖体に養われ支えられ力付けられる事を断る事は、イエスが生きておられた間の態度と福音に相応しく忠実な振る舞いになるのでしょうか。
「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」と。(ヨハネ4.18)それを知った上でイエスはサマリアの女に声をかけ、「心の内で泉となり永遠の命に至る水」(ヨハネ4.14)を飲むようにと誘いました。
そのイエスに倣う事。それは21世紀の教会の一つの課題ではないでしょうか。(完)
2008年6月号
ベリオン・ルイ神父

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