一つの物語から学ぶ(No.109)

 十八世紀のこと。ぜいたくざんまいに毎日を暮らず貴族がいて、華やかなレセブシヨンをしょっちゅう開<ことで有名でした。彼は一匹の熊を飼っていて、宴会に集まった人々にスリルを与えようと、お客さんたちがいい機嫌になった頃を見計らって、熊を引っ張り出していました。部屋の隅には、はちみつのはいった皿が用意してあって、はちみつが大好きな熊はお客さんには目もくれず、臭いのする方へ走っていきました。ところが責族は意地悪<もそのはちみつを熱く煮ていました。熊も最初はためらっていましたが、ついに貧食に抗しきれず、なめ始めました。「あつものに懲りて、鱈(なまず)を吹く」ということわざを熊には意味が通じてなかったようでした。恐ろしい剛え声を出しながらそれでもはちみつをたいらげるまでやめません。そして口の中のやけどが治るまで苦しい一週 間を断食しなけれぱなりませんでした。  皮肉な悲観主義の貴族は人生をけなすつもりで「人間だってこの愚かな熊とかわりはしない。自分の害になること、それをはっきり意識しながらもやらずにおれない。自分で自分の首をしめるのさ」と言いたかったでしよう。 その物語は作り話か本当の話かわかりませんが、いずれにしてもその物語の熊から学ぶことがあると思います。  私達が幸せへの道を歩むことが出来るために、慈しみ深い父なる神はイエスを通して最高の道、安全な道を案内して下さいました。しかし、“大好物”に見えるものを得るために、場 合によって私達はまったく違った道を走ってしまいます。しかし罪を犯し、善を怠ると、結果的に一番先に損をするのは私達自身です。自分の不幸を自分の手で作り、自分の苦しみを自分で増し、自分の裁きを自分で行ってしまいます。ところがそれを認めたくないため、自分にあまえて自己弁解を見せびらかし、他人のせいにすることがよくあります。その悪循環から脱するためにイエスが案内した道に戻ることしかありません。それには努カと勇気が必要ですが、卑怯に逃げるよりもその方法がはるかにキリストを信じる人に相応しい態度です。  “熊さん、この話の落ちをどう思う?” 2004年9月 ベリオン・ルイ神父

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