「鏡」としての聖書(No.111)
人類が初めてその顔を映した鏡は、清らかな水の面でした。しばらくして金属が発見され、表面を平らに磨くと、顔が映ることが知られるようになりました。ガラスによる鏡ができたのは近年になってからのことです。
人は自分の顔を一生自分の目で見ることは出来ません。そのためでしょうか、皆、鏡を使って自分がどのように人に見られているかを確認したがります。
鏡は、女性がお化粧する時によく使いますが、ひげを剃る時に男もよく使います。そればかりでなく、自分の顔色を確認したり、時には鏡に向かって怒ったふりをしてみたり、微笑んでみたりもします。鏡は、その都度をそのままに映し、自分の顔の変化を見せてくれます。自宅ばかりでなく、出かけた先でも、乗り物の中でも、女性のハンドバッグの中からは、小さな鏡がよくでてきます。
そう書いている私も、自分の書斎にいる時は全く気にしないのに、出かけることになると、ちらっと自分の姿を鏡で確かめます。どうでもいい年になったというのに、まだ自尊心はありますので、みすぼらしい格好をしたくないというのが本当の所です。
どうして「鏡」の話をしているのかと思う方がおられるでしょう。それは「心の鏡」「信仰の鏡」について少し考えていただきたいからです。
*自分が相手にする人間すべてが「心の鏡」です。親、兄弟、隣人、職場の仲間、教会の同胞、生きた人間が「鏡」です。人は本質的には、相手の顔よりも精神的な姿と性格と真実に興味があると思います。たとえば、私が相手にする人は、私の姿態より、そして私の口からでる言葉より、私の日常の振る舞いを観察しています。その観察によって得られるもので、その人の私に関する価値観が決まります。そしてそれは、私がどんな人間であるか、私自身にも間接的に知らせてくれることになるのです。
*鏡は、-皆さんもご存知のように- もう一つあります。そうです。「神」という「鏡」です。具体的に言えば、神の言葉です。太陽の光線を鏡に反射させると、合図することが出来ます。聖書、神の言葉は正しさにその役割を果たしています。神の言葉を読み、黙想すると、私の信仰生活はどうなっているかがすぐはかることが出来ます。いやになる程、その鏡は正直に木目細かく、自分の「信仰の顔」を映しています。じっとその鏡を見つめると、手からペンが落ちてしまいます。老けて見える、しわだらけ、早急にリフティング(美容整形)を求めている顔。
皆さんもお考えになったことがあるでしょう。
“神の言葉”という「鏡」に映る自分の「信仰の顔」はどうなっているのかって。“私は聖書を読まないからわからない”という答えは、厚化粧と同じように、ごまかしに過ぎません。
2004年11月
ベリオン・ルイ神父
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