口が剣になる時(No.127)

 子供のキャンプの間に必ずと言っていい程行われるゲームがあります。それは「伝言ゲーム」というとても面白いゲームです。一つの文章が何人かを通して伝わっていくと、どれ程内容が変わるか、楽しいことで、最後の人が文章を発表すると爆笑と拍手でゲームは終ります。しかしそのゲームは一つの教訓でもあることに注目してはと思います。それは、話が何人かを通して伝わっていくと、事実と全く異った話に成り得るということです。ゲームなら笑って済ませることでも、人に関する話になるとそうは行きません。
 
 「煙のある所に火がある」と勿体振って言う人がおりますが、場合によってどのようにして火がついたのか、誰が火を付けたかを問う必要があります。火事が終ってから警察や消防士が現場検証を行っているように。
 どうしてこの話をしているかと言いますと、それは相応しい心で、イエスの死と復活を記念するために、私たちは四旬節の間に努力することを教会から呼びかけられているからです。私たちはつい特別なことを考えようとしているのですが、キリスト者としてごく当たり前のことを目指した方がいいのではと私は思います。ごく当たり前のことの中で自分の口に注意することは、その一つです。“私の口が剣になる時”。注意しなければ、私の口は人を深く傷付ける恐れがあります。マタイによる福音書の中で(5章21〜23)イエスは厳しくそれを戒めています。イエスの弟子に許されないのは、武器をもって人を殺すことだけではなく、自分の口で人の名誉を傷付け、人を軽蔑し、人のことを悪く思わせ、人を中傷することです。ちょっとした不注意のため私たちは、うわさの火花を散らしてしまいます。
 −教会という共同体の中で様々な方が集まっていますので、当然のように相性が良い、相性が悪い人がいるでしょうが、それに基づいて判断すれば、人と人との関わり合いが妨げられ、下手をすれば交わることが拒否され、シャッターが降ろされてしまいます。何と悲しいさびしいことか。何とつまずきか。確かに私たちキリスト者にも感情があります。しかし、キリスト者だからこそ、それに負けず、それを乗り越えるように心掛けなければなりません。
 −人とぶつかったため、不愉快な思いをしたためなどの理由で、教会から離れる人がいます。その人たちの決断は正しいかどうかは別にして、そのこと自体は私たちへの叫びになっていると思います。確かに教会の中でも、人の性格が影響を及ぼし、過剰に反応する人がいれば鈍感な人もいますが、私たち一人ひとりは十分に人を迎え、理解するように努力し、人に話している時、十分に思いやりを表わしているでしょうか。そのことに関して私たちは皆反省し、改める必要があるでしょう。
 今年の四旬節の間に、パウロの次の言葉を肝に銘じて黙想し、実行するように心掛けたいと思います。「兄弟たち、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ思いを一つにしなさい。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心掛けなさい。それはイエス−キリストにも見られるものです。」と。
(フィリピの信徒への手紙2.2〜5)
2006年3月号
ベリオン・ルイ神父

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