書類が呼び起こした思い(No.151)

腑に落ちない思いの時期です。毎年1月の末までに各小教区は「教会現勢報告書」を出すことを要求されています。その書類は各教区、そして国のレベルでまとめられローマに送られます。その書類に転出転入、洗礼から死亡まで、主日祝日のミサの参加者数など、様々なことが記入され、それによって小教区、教区、教会全体の現状が浮き彫りにされます。しかし、それは紙の上での計画に過ぎず、小教区の小さなレベルでもすでに記入される数字には殆んど信憑性がないと言っていい程です。
書く人にはごまかす意思がなくても事実上各自、各家庭の実態を把握する事は不可能に近い事ですので、大まかな数字しか書く事が出来ません。その報告書が反映している小教区とその小教区の現状はいかに掛け離れているかを痛感します。言うまでもありませんが私が拘るのは数字の正確さではありません。それだけだったら統計学者を雇いその協力を求めれば問題を解決する事が出来るでしょう。疑問に思う事を一つの例を通して紹介しましょう。例えば“信者総数”の枠にどの様な数字を書けばいいのでしょうか。「信者」きっとそれは“洗礼を受けた人”の事を指しているのでしょうが、洗礼を受けた人イコール信者という計算は適切でしょうか。この様な調査の意味と目的は何でしょうか。それを通して知った事は何ですか。それが私の疑問です。
旧約聖書のサムエル記下には興味深い話が記録されています。ダビデはユダとイスラエルの王になってから時が経ち、政治状態が安定するとダビデは人口調査を行う事を命じました。(サムエル記下24.1〜9)
それは税金を納める事の出来る人や兵士になれる人の人数を把握する為でした。ところが神はその調査が気に入らず、それに賛成しなかった為、ダビデのその過ちの為にイスラエルの民は辛い体験をしてしまいます。(サムエル記下24.10〜15)多少複雑な話となっているその物語を通してサムエル記の作者は重大な意味のある事を教えようとしています。それは「神の民の人々」「神を信じている人々」の人数を神しか知り得ないという事です。
イエスキリストを信じる人々の民の事になると尚更の事だと言えるのではないでしょうか。カトリック教会という宗教団体に属している人々の人数をある程度把握する事が出来たとしても、それはイエスキリストを信じる事とどんな関係があるのでしょうか。教会の中での書類の山は、福音を宣べ伝え証する為に何の役に立つのでしょうか。書類を記入する為に使われる時間をもっと有意義に使う事の方が望ましいのではと思わずにはおられません。
おや、神父は急に機嫌が悪くなってこの「一言」を不満の捌け口に変えてしまったのかな。しかし、それは自分達と関係のない話だと思わないでいただきたいと思います。この“書類”の話は一つの例に過ぎないからです。
キリスト者として生きる為に私達は時間を有意義に使うように心掛けているでしょうか。その事について考えていただければと思い、先程の話をしました。2月6日(灰の水曜日)から四旬節に入り復活祭に向かって40日の間の時間を有意義に使うようにと教会から呼び掛けられています。教会の台帳に名前が載っている“書類上の信者”ではなく、イエスの弟子である事を意識し、福音に基づいて日常生活を送る“信者”になる為に教会の呼び掛けに答える様にお勧めしたいと思います。
早速2月23日、24日に行われる黙想会をカレンダーに記し、それに参加する為の時間を作る様に心掛けましょう。
2008年2月号
ベリオン・ルイ神父

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