エルサレムへ上ろう(6)(No.135)

 詩編が歌っているイスラエルの森、ヨルダン川のジャングルを通り抜けていた豹、そこで吠えていた獅子、山を歩き廻っていた熊や狼はどこへ消えてしまったのでしょうか。旅をしながら、今は目に映らない風景を頭の中でよみがえらせようとしました。この地を訪れると本当に歴史の重みを感じます。大自然と人の歴史を。イエスがこの地を去ってからの歴史を含めて…。
 ユダヤ戦争(66年〜70年)に巻き込まれることを拒んだエルサレムとユダヤのキリスト者たちは、ユダヤを去り、ペツラ(現在:ヨルダン)に住み着きました。すなわち60年代後半から教会に対する迫害が終わるまで、つまり4世紀の初め頃まで、例外を除いては(エルサレムへの巡礼の例がある)キリスト者はイエスが生活し、活躍された地に住まなくなりました。そのために場所に対する記憶が薄くなり、正確な情報は乏しくなりました。東ローマ帝国の皇帝コンスタンチヌスによって信仰の自由が認められると(313年)、皇帝の母である聖へレナはパレスチナへ巡礼に行き、−経済的な利益の期待に基づいた“うわさ”を含めて−古い伝説をもとにして、誕生からコルゴダの上での死までのイエスの一生を思い起こさせる場所で、記念として、多くの聖堂が建てられました。後に今日に至るまでその聖堂は何回か建て直されました。更に自然の災害(地震)や戦争のため、パレスチナの顔はずいぶん変わりました。6世紀まで、エジプトもパレスチナもヨルダンも、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の一部で、そこに住んでいた人々のほとんどがキリスト信者でした。ところが7世紀の初め(610年ごろ)イスラム教(回教)がムハンマドによって創立され、ジハード(聖戦)によってアラブ人はその国々を占領しました。(エルサレム638年)。生き残ったキリスト者はわずかでした。後に彼らを助け、“キリストの墓を解放する”ために十字軍の遠征(11世紀の終りから8回、175年の間)が行われました。とにかくその地方のキリスト者の歴史は不安、弾圧、迫害の繰り返しの歴史です。そして今も。そのキリスト者は(東方のキリスト者)カトリック教会を含めて32の教会(宗派)に別れています。旅の間に私たちが出会った東方の兄弟について連帯のしるしとして一言。
 * エジプトのコプト教会。コプトは“エジプト人”と意味しており、カイロのコプト地区に行った時に私たちは二つの聖堂を訪れ、その兄弟の祈る姿を見、神を賛美する彼らの声を聞き、しばらくの間、共に祈ることが出来ました。マルコに遡るその教会は40年前から“復活している”と言われています。置かれている状態が危険で、信仰を表明することは命がけなのに、司祭、修道士(女)になろうと選ぶ若者が多く、主の日に(金曜日)ミサ(2〜3時間も!)の後、信仰の養成のために信者たちはほとんど一日を教会で過ごし、著しい勇気をもって生きています。コプト人はエジプトの人口の18%を占めているのですが、回教徒ではないから差別され、禁じられた職業が多く(たとえば公務員)、税金に苦しめられ(破産に追い詰められる)、警察に監視され、選挙権があっても投票が行われるのは交番だから身の安全のために事実上その権利を行使することが出来ません。それに警察に守られていないため、突然過激な回教徒に暗殺され、教会が放火されるのもしばしばです。2006年1月19日のアレクサンドリアでの反コプト人の暴動は珍しく、日本の新聞にも報道されました。コプト人にとってエジプトでキリスト者として生活することは正に十字架の道です。
 * イスラエルのアラブ人キリスト者。ベツレヘム、ナザレなどにはアラブ人でありながらキリスト者である人々が少なくありません。しかし回教徒から裏切り者扱いされ、イスラエルから疑われ板挟みになり、危険を逃れるために安全を求めて多くのアラブ人キリスト者はイスラエルからアメリカやヨーロッパの方へ移住してしまいます。
 * ヨルダンのキリスト者。ヨルダンでの私たちのガイドさんはアタナジオという霊名を持っていたキリスト者でした。私が司祭で、しかもフランス人であることを知り、彼は胸の内を明かして見事なフランス語で二時間も話し続けました。彼の口から中東におけるキリスト者の現状について聞いたことが頭から離れません。特にイラク戦争が始まって以来(ヨルダンはイラクの隣国)のことについて、自分の耳を疑うような話を聞かされました。教養の高いレベルで、パレスチナ人である彼は絶望感を抱き、回教徒でない人は回教徒の多い国で共に生活することが不可能だと結論付けて、石油と水不足の問題に加えて現在のイスラム教の中で存在するパラノイア(偏執狂)は次の世界戦争の原因になる、という非常に悲観的な心境を打ち明けました。“それで自分はスイスへ移住し、そこで家庭を築くことを決めた”と話を結びました。
 
 彼の話の中でイラクという言葉はよく出てきましたがそう言えば戦争のためにその国で百二十万人いたキリスト者は今六十万人まで落ち込んでしまいました。バグダッドでは75%のキリスト者は脱出してしまいました。(カトリック新聞2006年8月13日)
 
 春の二週間の信仰の旅において様々なことを確信しましたが、中東における回教徒と少数のキリスト教徒との関係に関しては、心の中で戸惑いと不安しか残りません。それに世界の火薬庫となっているこの地で、ガソリンとマッチを持って遊んでいる人がいることを思うと…。“イエスよ、何をすればいいのか教えて下さい。そしてお願いだからこの地でのあなたの弟子たち、私たちの兄弟を心にとめて下さい”。そのようにしか祈ることが出来ませんでした。 
                                  (続く)
2006年11月号
ベリオン・ルイ神父

エルサレムへ上ろう(5)(No.134)

 「エルサレム」。町の交差点の信号を見て初めて気付きました。日本と同じように、青から赤に移る前に信号は黄色になりますが、イスラエルでは赤から青に変わる前にも、信号は再び黄色になります。きっと交通安全のためでしょうが、それは一つのシンボルとして私の目に映りました。戦争(赤)と平和(青)の間に揺れ動く(黄色)、イスラエルとその象徴エルサレム。
 「エルサレム」。4月26日(水)オリーブ山からエルサレムを眺めているうちに、イエスの姿が目に浮かび、次の言葉が耳に響きました。「エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ。めん鳥がひなを羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だがお前たちは応じようとしなかった。」と。(マタイ23.37)イエスの嘆きを思い出して、胸が締め付けられた感じがしました。夕日の柔らかい光を暖かく反射するエルサレムの壁。その日の温もりを静かに吸収しているベージュ色のエルサレムの石。美しい町エルサレム。
 −ユダヤ教、キリスト教、イスラム教。歴史と伝説、銃と信仰、生と死。入り交じっている人の尊さと恐ろしさ、偉大さと愚かさ。人の心の中に潜んでいるすべてを反映し、象徴している町、エルサレム。
 −シオンの丘からベン・ヒンノムの谷を覗きました。エルサレムの南西にあるその谷を福音書はギリシャ語で“ゲヘンナ”と呼んでいます。昔、ヘブライ人たちがカナンの地に入った時、そこでカナン人は災害から守られるために、自分たちの神々に子供たちをいけにえにしていました。残念なことにイスラエルの人々もその習慣を真似してしまいました。(エレミヤ7.31)後にその谷はごみの捨て場となり、炎と煙が渦巻いていたため、黙示文学の作者たちはその場を永遠の不幸のシンボルにしました。こんにちの“地獄”はそれに由来しています。谷の入り口に『アケルダマ』「血の土地」(使途言行録1.19)、ユダが「首をつって死んだ」(マタイ27.5)と言われている寂しい庭が隠れようとしています。陰惨なエルサレム。
 −2千年前、神殿の境内があった上に広がる広場、ユダヤ人地区、回教徒地区、キリスト教徒地区、アルメニア人地区を物思いにふけて歩き続けました。エルサレムでのイエスの言葉と行動を思い起こしながら、ゲッセマネの園からケデロンの谷の向こうにあったカイアファの家に導く石の階段を上り、イエスとシモン・ペトロの心境を必死に見抜こうとしました。そして、ピラトの官邸からゴルゴダへ。悲劇の町エルサレム。
 −この町で父なる神によって復活させられ、生きておられるイエス・キリストへの信仰に目覚めた使徒たちは、福音を宣べ伝え、証しするために、この町から地の果てへと旅立ちました。そのおかげで日本から訪れた私たちは、この町の土地を踏む恵みを与えられました。信仰と希望の町エルサレム。
 21世紀のエルサレムの現実を見て、複雑な気持ちを抱いたことを隠すことが出来ませんが、同時に私の内に抑えきれない程の感謝の気持ちも湧き続けました。バスの中でもホテルの夕べの祈りの時にも、私たち参加者は皆、詩編(122.126.137など)を歌いながら今までにない感動を覚え、父なる神を賛美しました。
 エルサレムを眺め、その石段を上り、荒野から風に運ばれる埃に晒され、様々な芳しい匂いを嗅ぎながら私は確信しました。この町にいつか真の平和が訪れて来る。そしてその日は世界の平和への先駆けになる。それによってイザヤの夢も(イザヤ60章)ヨハネの夢も(黙示録21章9−27)人類と私たち一人ひとりの夢も実現する。平和の主を迎えることさえ断らなければ…。
                                  (続く)
2006年10月号
ベリオン・ルイ神父

エルサレムへ上ろう(4)(No.133)

 4月25日(火)。福音史家マルコの祝日です。“さあ、今日はマルコによる福音書を胸に、ガリラヤの空気をたっぷり吸い込もう”。ところがその日のガリラヤの空は機嫌が悪く、ナザレを出てから薄い霧の中を走り、「私を何者だというのか」(マルコ8.29)と弟子たちがイエスに尋ねられたフィリポ・カイサリアに着いた時、30年振りの豪雨に迎えられました。大量の雨のため、ヘルモン山から流れる水は凄い水飛沫を上げながら、通常よりも大きな滝となって落ちていました。ここはバニアス、ヨルダン川の源流です。
 そこから南へ、ガリラヤ湖です。“七つの泉の教会”で「五つのパンと二匹の魚」のしるし(マルコ6.35−44)を記念する素敵なモザイクを見てから、ペトロを始め漁師がイエスに呼ばれた(マルコ1.16−20)場所と言われている“召命教会”の方へ足を運びました。ガリラヤ湖の傍に建っているその祈り宿が、最も新鮮に私の記憶に残っています。それは38年前、司祭になった時に知り合いの方に送った招待状に、弟子たちがイエスに呼ばれた場面を自分の手で描いたからでしょうか…。“召命教会”の中で飛び回り、窓から湖へ、そして再び窓から教会の中へ自由に飛び交うつばめの美しいバレエを微笑ましく見つめながら、詩編の言葉を思い出して、司祭の召命のために祈りました。「あなたの祭壇に鳥は住みかを作り、つばめは巣をかけてひなを置いています。私の主、私の王、私の神よ。いかに幸いなことでしょう。あなたの家に住むことが出来るなら、ましてあなたを賛美することが出来るなら。」(詩84.4−5)と。
 ペトロの魚(すずめだい)をお昼のごちそうにして、いよいよエンゲブから向こう岸のティベリアスへ渡ろうとしました。…他の舟の姿が見当たらす、まるでガリラヤ湖は我もの、貸切状態です。嵐が湖に襲いかかろうとしていたため、遊覧船は出なかったからです!しかし私たちは必死に交渉して、「安全第一」というセリフを知らない粗末な舟に乗り、マルコによる弟子たちの体験(マルコ4.35−41)を味わいました。びしょ濡れになって、ガリラヤのパンとカナのワインで私たちは最後の晩餐を共に記念しました。私の人生において最も感動的なひとときをかみしめることが出来ました。
 ティベリアス港に着いた途端に雨と風がやみ、“祝福の山”に登ると青空が広がり、太陽が私たちを暖かく包んでくれました。そのまま、すぐにバスに戻るのは勿体ないと暗黙の内に皆が思い、「幸い、自分の貧しさを知っている人」(マタイ5.1−12)、山の上でのイエスの有名な言葉を心に響かせながら、のんびりとガリラヤの丘を散歩しました。
 帰り道に、マグダラのマリアの村、ミグダルを目で追いながら、イエスの赦しがもたらす“新しい誕生”について静かに黙想しました。
 そして再びナザレ。イエスの時代におよそ三百人の小さな村だったのに、今は七万人の町になりました。様子はすっかり変わってしまいましたが、きっと変わっていないのは朝早く私を起こした鶏の鳴き声でしょう。そのナザレは7月中旬にレバノンの南部からヒズボラの民兵によるロケット攻撃を受けました。4ヶ月半前に私たちはガリラヤの野の花の美しさに魅せられて、野原で無邪気に歓喜の声を上げていたのに…。
 “神のぶどう畑”を意味しているカルメル山の上から私たちが見下ろしたイスラエルの空軍基地から、今は(8月1日現在)レバノンの方へ戦闘機は次々と離陸しています。…4月25日、午前十時に第二次世界大戦中のユダヤ人の大虐殺(ホロコースト)を思い起こすための黙祷の間、大勢の人々と共に心を込めて平和を祈り求めたばかりなのに。…イエスが育ち、活躍されたガリラヤに、真の平和がいつ訪れるのでしょうか。
 それでもガリラヤ地方を巡って私は確信しました。ガリラヤ湖のほとりで、ガリラヤの丘で、風が運んでくれたイエスの声にいつかは人々が耳を傾けるでしょう。いくら嵐が襲いかかろうとしても、いつかはイエスの福音は人の心を潤し、人の心に深く浸透し、人の頑なな心を変えるでしょう。しかしそのために、イエスよ私たちがその福音を宣べ伝え、証しするためにあなたから遣わされていることをもっと認識させて下さい。
                                  (続く)
2006年9月号
ベリオン・ルイ神父

エルサレムへ上ろう(3)(No.132)

 ユダヤ教の暦で、私たちは5766年4月22日安息日にタバからイスラエルに入りました。−イスラエル−信仰の歴史を語る遺跡の地。数千年もの間、カナンの地は“肥沃三日月地帯”の中心にあったために、隊商が往来する貿易のルートでしたが、大帝国、南はエジプト、東はアッシリア、バビロニアとの間に挟まれていたため、度々侵略され、荒らされました。戦争、疫病、地震。古き時代の遺跡を発見するために深く掘る必要がありますが、運も手伝えば脅威の目を見はらせるものが出土します。
 旅の順に従って…
* −「マサダ」−。死海の西側に海を見下ろす山の上で、ヘロデ大王(紀元前37年〜4年)によって占領し難い要塞が建てられました。その中で立派な宮殿と美しい入浴場の跡が目に映ります。ユダヤ戦争(大反乱66年〜70年、132年〜135年)の終りに、バル・コクバの指導に従っていた熱心なユダヤ教徒はマサダで避難し、ローマ軍に降伏するよりもお互いに殺し合うことを選びました。“マサダ・シンドローム”(マサダ症候群)。今でもユダヤ教の正統派(元ファリサイ派)はその精神を称え、イスラエルの兵士はここで絶対に降伏しないことを誓います。
* −「クムラン」−。ユダの荒野へ紀元前2世紀の終り頃、ユダヤ教のエッセニア派の人々は死海の辺りに住み始めました。紀元前31年頃、大きな地震が起こったため、一時その地を離れましたが、イエスの時代にここに戻り、68年にローマ軍から追い出されました。再び歴史の光を浴びたのは1947年です。その辺りの洞窟の中で、聖書の巻物が発見された時です。その“死海写本”のおかげで、エッセニア派の人々の生活、信仰の内容を知ることが出来ました。発見された旧約聖書などの掛け替えのない貴重な写本は今、エルサレムの博物館に保存されています。尚、洗礼者ヨハネはいくらかそのエッセニア派の影響を受けたと考えられています。
* −「エリコ」−。“なつめやしのオアシス”海抜下250メートル、ヨルダン川まで8キロ、死海まで10キロ、エルサレムまでほぼ20キロ、6千年の歴史を誇る町、世界で一番古い町と言われています。ヘブライ人は約束の地に入った時(ヨシュア記6)エリコはすでに1500年も前から廃墟になっていました。その町の素晴らしい遺跡から2キロ離れたところで、イエスの時代に遡るザカイのいちじくぐわが(ルカ19.1〜10)観光客を待っています。
* −「メギド」−。東はメソポタミア、南はエジプト、西はフェニキア、北はシリアへ行く道の交差点。メギドは紀元前5000年も前からイズレエルの平野を見守る砦でしたが、ファラオによって(紀元前926年)アッシリアの王によって(紀元前732年)再びファラオによって(紀元前609年)町が次々に滅ぼされたために、イスラエルの中で、メギドは不幸、世の終りのシンボルとなりました。黙示録の中でヨハネはその名前“ハルマゲドン”(メギドの山)を通して、悪の上での神の決定的な勝利(黙示録16.16〜)を預言しました。
* −「カファルナウム」−。シナゴーグの跡。そのシナゴーグでイエスは人々の前で話されました。
* −「カイサリア」−。ローマ時代の印象的な遺跡。ここでピラトの名前が刻まれた碑は発見され、ここでペトロと「イタリア隊」の百人隊長コルネリウスとの出会いのおかげで、初めて異邦人はキリスト者になり(使徒言行録10)、ここでパウロは2年間(使23.22、24.24〜27)監禁されました。
* −「エルサレム」−。イエスの時代のベトザタの池(ヨハネ5.1〜9)、キデロンの谷を渡ってカイアファの家に導く階段、イエスが一夜を過ごした牢獄(ヨハネ18.24.28)、ピラトの官邸のリトストロトス(ヨハネ19.13)。その遺跡はイエスの環境を蘇らせます。
 興味深く聖書の新鮮味を味わい、夢と現実の間にさまよいながら、それぞれの遺跡を回ってきました。嘆きと感謝の祈り、血と汗、敗北と勝利、滅亡からの復活、歴史の光と影を目にして、私は確信しました。神は歴史の中で人と共に歩み、今もまさに“インマヌエル”である、と。
                                  (続く)
2006年8月号
ベリオン・ルイ神父

エルサレムへ上ろう(2)(No.131)

 エジプト。走馬灯のように様々な光景が目に浮かびます。− スフィンクスの不可解な表情 − ピラミッドの優雅な姿 − 目路の限りリビアの方へ拡がっていく砂漠 − 近代的な建築を囲んでいるスラム − カイロのコプト(マルコに遡るエジプトのキリスト者)地区の古いシナゴーグ(ユダヤ人の集会所)の横にあるモーセの井戸(モーセはファラオの王女に発見されたと言われる場所:出エジプト記2.5〜10)−市場にあふれる野菜と果物 −。いくらシナイ半島のオアシスのなつめやしの実が美味しくても、ヘブライ人の不平不満が(民数記11.4〜6)よくわかります。
 
 そしてシナイ山。
 夜中にラクダのふんを避け、偉そうな顔をしているラクダに道を譲りながら、砂利の山道を登り始めました。懐中電灯を手にする人の行列−山の下から上まで蛇行した蛇を思い起こさせる。光の糸−闇の中でこだまするベドウィ人の声、“カメル”(英語)“シャモ”(フランス語)“ラクダ”−。ついに険しい岩場を乗り越えて、シナイ山の頂上につきました。「神の山」ホレブ山(シナイ山)はどの山を指しているのか。モーセはどういう人物だったのか。モーセと共にエジプトから逃げた、あるいは追放されたヘブライ人たちは、どんな人々だったのか。歴史学者は今でもそれに答えるために必死に研究を続けているのですが、なかなか正確なことを断定することが出来ません。それは数百年もの間、聖書が一つの信仰の内に様々な部族の記憶に残っていた昔話を、何度も書き直したからです。
 しかし、歴史、地理、起こった出来事も正確に記録されたかどうかは問題ではありません。大切なことは、その“物語”を通して出エジプト記、レビ記、民数記、申命記が紹介していることです。それはイスラエルの信仰です。イスラエルはモーセを通して神に出会い、神とイスラエルの民との間に契約が結ばれ、イスラエルは神の民として誕生したという信仰です。
 私たちがシナイ山に登ったのはモーセがその山に登ったからではありません。
神との出会いの尊さ、人類の歴史の中で共に歩む神との交わり、生活の中でそれに生きることのむづかしさ、それらのことを思い出し、新たに自覚し、今からそれにもっと相応しく生きる決心を改めるために、何時間もかけて私たちはシナイ山に登りました。
薄雲の中からゆっくりと上る新しい一日の太陽を眺めながら、私は60年間の信仰の旅を静かに振り返りました。
 人々が去ってから、私たちは頂上で腰をおろし、聖書を開き、神とモーセとの出会い(出エジプト記3.1〜15)、神とイスラエルの民との間に結ばれた契約(出エジプト記19.20)の話を読み、味わい、黙想しました。
 18名全員がシナイ山の山頂まで登ることが出来ませんでしたが、そこに集まっていた私たちは、ふもとに残っていた人、途中まで上った人、そしてはるか彼方の日本での黒崎共同体の皆さんと心を合わせて、イスラエルの民の神、イエスの父に感謝しながら、その神を称えて賛美しました。
その時に私は確信しました。「神の山」の上でのそよ風は、モーセとエリア(列王記上19.3〜15)の時代と同じように今日も神の声を運んでくれる、と。
                                  (続く)
2006年7月号
ベリオン・ルイ神父

エルサレムへ上ろう(1)(No.130)

 十年も前から、水曜日毎に集まったおよそ三十名の方と共に、創世記からヨハネの黙示録まで聖書の言葉を読み、その深い意味を味わうために分析しながら研究してきました。いつかは一緒に“エルサレムへ上ろうね”という夢を抱き、2001年に計画を立てましたが、パレスチナの状態が急に不安定になったために中止をせざるを得ませんでした。幸いに、今年2006年に(4月18日〜5月2日)その夢が叶えられました。只、健康などの理由のため、共に参加することが出来なかった方がおられたことは心残りです。
 私たちが(18名)聖書の地を訪れたのは、観光のためでもなければ自己満足のためでもなく、帰ってから自慢話をするためでもありませんでした。黒崎教会の共同体から遣わされ、イエスが生活をし、福音を宣べ伝えた地を始め、聖書の舞台となった地へ神の声に心を開き、神の言葉に耳を傾けるために信仰の旅に出ました。その旅の間に味わったこと、体験したこと、確認したことを、皆さんと分かち合おうと考え、数回に渡ってこの場を借りてお話させていただきたいと思います。もちろんその「一言」の中で書かれることは、私の個人的な見方に過ぎないので、是非他の参加者の感想を伺うようにお勧めしたいと思います。
 リュックサックに入れた聖書を背負い、神の言葉と共に一日を過ごし、訪れた場所に合わせて聖書を読み、その言葉を味わい、黙想するように心掛けました。エジプトで始まった私たちの信仰の旅は、モーセ、イスラエルの民、イエスと弟子たちの足跡を辿り、ヨルダンの地で終わりました。
 出発する以前にすでによく知っていたことですが、その地を訪れて心の痛みがあることを確認させられました。その地は“聖地”ではありません。エジプト、シナイ、イスラエル、パレスチナ、ヨルダン。人々がそれを“聖地”と呼び、“聖地”と決め付けたために争いが絶えず、その地は昔も今も対立、紛争、戦争の原因とされてきました。その地は人の感情をあおり、恨みや憎しみの種が蒔かれた血まみれの地となってしまいました。国境、検問所、分離の壁。嘆きの壁を愛しくさわり、夢中になって祈り、聖書を恭しく接吻しながら銃を構えている若いユダヤ人兵士たち。イエスの時代の神殿の境内の隅に建てられたアル・アクサとオマル(岩のドーム)のモスクの立ち入りを烈しく異教徒に禁じるイスラム教徒。聖墳墓教会ですべてのキリスト者が同じ祭壇でイエスの十字架の上での死を祈ることを拒み、不幸な歴史をいまだに乗り越えることが出来ず、赦す掟を無視している様々な宗派のキリスト教徒。
 イエスよ、その地は“聖地”ではありませんでした。その地を訪れてサマリアの女に向ってイエスが説いたことの鋭さと素晴らしさ、いやイエスが述べた真実の光に一層照らされたような気がしました。「婦人よ、私を信じなさい。この山(ゲリジム山)でもエルサレムでもない所で父を礼拝する時が来る。・・・まことの礼拝をする者たちは霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。」(ヨハネ4.21〜23)
 “聖地”は人です。人の心です。しかしイエスよ、二千年経った今も、多くの人にとってそれが通じず、「時」はまだ来ていません。だからあなたしかもたらすことの出来ない平和が実現しますようにと私たちは「平和の都」“エルサレム”で心から祈りました。−その地は“聖地”ではありませんでした。−
 それにしても、シナイ、ユダ、ヨルダンの砂漠の眩しい太陽を浴びて、ガリラヤの丘の爽やかな風に頬を撫でられて、親しいメロディのように神の言葉を口ずさみながら、私は神がその地を訪れたことを身にしみて確信しました。
                                  (続く)
2006年6月号
ベリオン・ルイ神父

お母さん 〜聖母マリアへの手紙〜(No.129)

 愛しい聖母マリアよ。
 私の母をご存知ですね。あのおばあさんは弱いところもあった人間ですが、私にとっては掛け替えのない「お母さん」でした。私の言い方は少しオーバーかもしれませんが笑わないで下さいね。娘時代の母は、とりわけ潔く美しかったろうと思っています。
 あなたは生まれつき、完全に潔いものでしたね。原罪も自罪も、その影も汚れもない心でした。神学者はあなたを無原罪のやどり、と呼んでいますよ。私はそんな難しい言葉はよくわかりませんが、イエスと一緒にあなたの潔さを自慢させていただいて、神に感謝します。
 私は自分の誕生の時の記憶がありませんが、若いお母さんたちを見ると、その時の私の母の喜び、希望、未来に対する不安と信頼の入り交じった心を容易に想像することが出来ます。
 ベツレヘムであなたも赤ちゃんイエスを前にして、このようであったろうと察しています。そしてあなたは聖書に書いてあるわかりにくい預言について思い巡らし、暗い夜のような不安の中にいたのでしょう。
 私の父と母は今、永遠の安息を味わっているのですが、父の最後の病気の時、母は世話をしながら時々泣いていたと兄弟から聞きました。母は夫に代わって、子供に代わって、自分がその苦しみを耐えたいと切望しながらも、それがなかなか出来ないでいたから泣いていたのでしょう。
 聖母マリアよ、ヨセフに死なれた時のあなたの心、イエスの十字架の上での姿を見なければならなかったあの時のあなたの心も、ご自分でも人間の言葉をもっては、到底言い表すことが出来なかったでしょう。しかし私は直感でわかります。父と死別した時の母の悲しそうな、けれども神に対する従順と信頼とを読み取ることの出来た、落ち着いたあの顔を想像することが出来ます。復活の夜明けにあなたがイエスに再会された時のことは福音書まで遠慮して文字にしませんでしたが、その時のあなたの微笑みを想像することが出来るように。
 そして弟子たちはイエスに去られ、次にあなたにも去られてしまった時、取り残された者のように寂しかったでしょうが、彼らにはあなたの最後の微笑みは強く印象に残ったに違いありません。どうか辛い時に私たちをも励まし、私たちにも微笑んでください。
 教会の中で、昔からこの五月はあなたの月と定められています。私たちの母の日も今月です。鈍感な私たちは、めいめいの母親を通してしかあなたを見出すことが出来ませんが、福音書に描かれているあなたの姿から私たちは常に学ぶことが出来るようにと、あなたの子イエスを切に祈り求めます。
 天のお母さんマリアよ、私たちのお母さんをよろしくお願い致します。
 そして心から愛した母よ、もう一度、ありがとう。
2006年5月号
ベリオン・ルイ神父

イエスの復活の記念とは(No.128)

 ある教会での出来事です。その教会で主日のミサの最中にお葬式が行われました。死者の身元は不明でした。おそらく信者であろうと教会でお葬式を引き受けたのでしょう。お葬式は荘厳に行われ、参加者には同情と関心の目。告別の時に司祭は「どうぞ皆さん、そのお顔を見てください。もしかするとご存知の方がおられるかもしれません」と言って、列席の人々は並んでお棺へ進みました。死者の顔が見える窓に屈むと、一様に皆驚いた表情を見せ、その後黙って席に戻りました。
 −実はお棺に遺体は入っていませんでした。死者の顔の位置に鏡が置かれ、覗き込んだ人はそこに自分の顔を見たのでした。その顔は「あなたは生きていますか、それとも死んでいますか」と問い掛けていたかのようでした。
 イエスの復活を記念しようとする私たちも問い掛けられています。あなたの生き方はイエスが生きておられることを表しているかどうか、という問い掛けです。イエスの復活を記念するということは、儀式に参加することだけで終わるのではありません。イエスが生きておられることを信じるとすれば、私たちの生き方はそれを反映するはずです。イエスが死から命へ移ったことは過去のことですが、そのために、イエスは今も生きておられます。過去のことを記念しながら、私たちはイエスが今も生きておられることを証しするように心掛けなければなりません。その証しは記念されていることの意味を照らしているからです。私たちは何を、どのようにして、イエスが生きておられることを証しすることが出来るのでしょうか。それを考えずには今年の復活祭も迎えることが出来ないと思います。「希望に生きる」ということは、イエスが生きておられることへの証しではないでしょうか。確かに、−軍靴の音、文化の対立、感染病の広がり、経済の摩擦、−教会の中での高齢化、司祭不足、旧慣墨守、想像力の乏しさ、−又現在、多くの方が置かれている状態を見ると、不安の材料が山程あり、希望に生きるということは、無謀なかけ、無理な展望であると言われても仕方がないでしょう。しかし、希望なしにイエスは受難に立ち向かうことが出来たのでしょうか。希望なしにイエスは復活の夜明けを迎えることが出来たのでしょうか。パウロを始め、使徒たちの手紙、黙示録を読むとわかるように、様々な困難に会っていた当時のキリスト者は、常に希望に生きるようにと強く勧められていました。その理由はイエスが復活して生きておられるからだ、ということでした。
 ところが私たちは、すでに様々な問題や悩みを抱えているため自分の内に希望の灯が消えかかっているのに、どうして人の前で希望に生きることが出来るのかと疑問に思う方は少なくないでしょう。希望に生きることは、自分の意思の努力によって生まれるものだとすれば、確かに不可能に近いことだと思います。しかし、神から私たちに与えられている希望だから可能になります。その源はイエスの復活です。だからイエスの復活を記念しながら、そのイエスの復活への信仰を新たにし、その内に希望に生きる力をもう一度汲んでみたいと思います。
 皆さん、イエスのご復活おめでとうございます。
2006年4月号
ベリオン・ルイ神父

口が剣になる時(No.127)

 子供のキャンプの間に必ずと言っていい程行われるゲームがあります。それは「伝言ゲーム」というとても面白いゲームです。一つの文章が何人かを通して伝わっていくと、どれ程内容が変わるか、楽しいことで、最後の人が文章を発表すると爆笑と拍手でゲームは終ります。しかしそのゲームは一つの教訓でもあることに注目してはと思います。それは、話が何人かを通して伝わっていくと、事実と全く異った話に成り得るということです。ゲームなら笑って済ませることでも、人に関する話になるとそうは行きません。
 
 「煙のある所に火がある」と勿体振って言う人がおりますが、場合によってどのようにして火がついたのか、誰が火を付けたかを問う必要があります。火事が終ってから警察や消防士が現場検証を行っているように。
 どうしてこの話をしているかと言いますと、それは相応しい心で、イエスの死と復活を記念するために、私たちは四旬節の間に努力することを教会から呼びかけられているからです。私たちはつい特別なことを考えようとしているのですが、キリスト者としてごく当たり前のことを目指した方がいいのではと私は思います。ごく当たり前のことの中で自分の口に注意することは、その一つです。“私の口が剣になる時”。注意しなければ、私の口は人を深く傷付ける恐れがあります。マタイによる福音書の中で(5章21〜23)イエスは厳しくそれを戒めています。イエスの弟子に許されないのは、武器をもって人を殺すことだけではなく、自分の口で人の名誉を傷付け、人を軽蔑し、人のことを悪く思わせ、人を中傷することです。ちょっとした不注意のため私たちは、うわさの火花を散らしてしまいます。
 −教会という共同体の中で様々な方が集まっていますので、当然のように相性が良い、相性が悪い人がいるでしょうが、それに基づいて判断すれば、人と人との関わり合いが妨げられ、下手をすれば交わることが拒否され、シャッターが降ろされてしまいます。何と悲しいさびしいことか。何とつまずきか。確かに私たちキリスト者にも感情があります。しかし、キリスト者だからこそ、それに負けず、それを乗り越えるように心掛けなければなりません。
 −人とぶつかったため、不愉快な思いをしたためなどの理由で、教会から離れる人がいます。その人たちの決断は正しいかどうかは別にして、そのこと自体は私たちへの叫びになっていると思います。確かに教会の中でも、人の性格が影響を及ぼし、過剰に反応する人がいれば鈍感な人もいますが、私たち一人ひとりは十分に人を迎え、理解するように努力し、人に話している時、十分に思いやりを表わしているでしょうか。そのことに関して私たちは皆反省し、改める必要があるでしょう。
 今年の四旬節の間に、パウロの次の言葉を肝に銘じて黙想し、実行するように心掛けたいと思います。「兄弟たち、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ思いを一つにしなさい。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心掛けなさい。それはイエス−キリストにも見られるものです。」と。
(フィリピの信徒への手紙2.2〜5)
2006年3月号
ベリオン・ルイ神父

キリストとの出会いに間に合いたい(No.126)

 マタイによる占星術の学者(マゴイ)の物語は(マタイ2.1−12)、つい最近(1月8日)教会で読まれましたが、その物語を基にして後に書かれた話がたくさんあることを皆さんもご存知の通りです。きっと皆さんも次の話を読んだことがあるでしょう。(「もう一人の博士」アンリ−バンダイク。「ANOTHER WISE MAN」)
 〜実は「マゴイ」は三人ではなく四人だったという。
 四人目は出発の時に間に合わなかったのです。遅れた彼は、後から急いで追いかけて行きましたが、あの案内の星は消えてしまっていたし、途中、道に迷ったりなどして、仲間に会えませんでした。様々な苦労のあげく、やっとベツレヘムに到着したものの、後の祭りでした。祭りどころか、そこはもはや涙の谷と言った方がいい町でした。というのは、ヘロデ王が二才以下の赤ん坊を皆殺しにしたばかりでした。がっかりした彼は、それでもイエス、マリアとヨゼフがエジプト方面へ逃げたと聞いて、広い寂しい砂漠を歩き回ってみたのですが、無駄な骨折りでした。 − 国に戻った彼は、また天文学に首をつっこんでいったのですが、「私の見た星は空想なんかじゃなかったのだよ」と口癖のように言いながら、いつまでも忘れられませんでした。・・・やがて年月が移り、彼もはげ頭と、ひざまでもの白い髭との年寄りになりました。突然ある日、妙な噂を耳にしました。大工ナザレのイエスという人に関する噂でした。「この人だ!」。隊商の一行に加わり、彼はエルサレムへやって来ました。都は祭りのように賑やかでしたが、それは憎しみに濁された騒ぎでした。金曜日の午前十一時でした。野次馬に押し流されて十字路に立った時、ちょうどイエスが苦しそうに十字架に押しつぶされるように倒れたところでした。彼は道に飛び出して、「主よ、赦して下さい。私はまたも遅れを取りました。今日ももはや遅すぎました。」と言いました。イエスは彼をじっと見つめて、「遅すぎることはない。」と答えました。〜
 その後、物語は続きますし、物語が教訓としていることは今からの話とは違いますが、私が抜粋した箇所に基づいて、次のことを考えていただきたいと思います。イエスの誕生を祝う典礼に間に合わなかったとすれば、イエスの死と復活を記念する典礼に間に合うように遅くはないということです。12月25日から4月16日までの典礼が一環しているから、まだ間に合います。遅すぎるのではありません。今からの時間さえ大切にすれば。四旬節に入るのは、3月1日灰の水曜日からですが、2月の間に、神の声に耳を傾け、イエスに出会うように心掛ければ、遅く出発したとしても間に合います。「典礼」という言葉を通して、私たち一人ひとりの人生についても話していることが、皆さんもおわかりになったことでしょう。
ところが、遅すぎる時、間に間に合わない時があることを忘れてはなりません。それは、死んでからのことです。死んでからでは、いくら高い金額を払ったとしても、いくら盛大に派手に葬儀を執り行ったとしても、いくら大群衆が揃ったとしても、何の役にも立ちません。
* 尚、病を患っている時、たとえそれは死に至る病気でなくても、是非赦しといやし、聖体の秘跡を通してのキリストとの出会いを遅らせないようにと切にお願い致します。
2006年2月号
ベリオン・ルイ神父