エルサレムへ上ろう(4)(No.133)

 4月25日(火)。福音史家マルコの祝日です。“さあ、今日はマルコによる福音書を胸に、ガリラヤの空気をたっぷり吸い込もう”。ところがその日のガリラヤの空は機嫌が悪く、ナザレを出てから薄い霧の中を走り、「私を何者だというのか」(マルコ8.29)と弟子たちがイエスに尋ねられたフィリポ・カイサリアに着いた時、30年振りの豪雨に迎えられました。大量の雨のため、ヘルモン山から流れる水は凄い水飛沫を上げながら、通常よりも大きな滝となって落ちていました。ここはバニアス、ヨルダン川の源流です。
 そこから南へ、ガリラヤ湖です。“七つの泉の教会”で「五つのパンと二匹の魚」のしるし(マルコ6.35−44)を記念する素敵なモザイクを見てから、ペトロを始め漁師がイエスに呼ばれた(マルコ1.16−20)場所と言われている“召命教会”の方へ足を運びました。ガリラヤ湖の傍に建っているその祈り宿が、最も新鮮に私の記憶に残っています。それは38年前、司祭になった時に知り合いの方に送った招待状に、弟子たちがイエスに呼ばれた場面を自分の手で描いたからでしょうか…。“召命教会”の中で飛び回り、窓から湖へ、そして再び窓から教会の中へ自由に飛び交うつばめの美しいバレエを微笑ましく見つめながら、詩編の言葉を思い出して、司祭の召命のために祈りました。「あなたの祭壇に鳥は住みかを作り、つばめは巣をかけてひなを置いています。私の主、私の王、私の神よ。いかに幸いなことでしょう。あなたの家に住むことが出来るなら、ましてあなたを賛美することが出来るなら。」(詩84.4−5)と。
 ペトロの魚(すずめだい)をお昼のごちそうにして、いよいよエンゲブから向こう岸のティベリアスへ渡ろうとしました。…他の舟の姿が見当たらす、まるでガリラヤ湖は我もの、貸切状態です。嵐が湖に襲いかかろうとしていたため、遊覧船は出なかったからです!しかし私たちは必死に交渉して、「安全第一」というセリフを知らない粗末な舟に乗り、マルコによる弟子たちの体験(マルコ4.35−41)を味わいました。びしょ濡れになって、ガリラヤのパンとカナのワインで私たちは最後の晩餐を共に記念しました。私の人生において最も感動的なひとときをかみしめることが出来ました。
 ティベリアス港に着いた途端に雨と風がやみ、“祝福の山”に登ると青空が広がり、太陽が私たちを暖かく包んでくれました。そのまま、すぐにバスに戻るのは勿体ないと暗黙の内に皆が思い、「幸い、自分の貧しさを知っている人」(マタイ5.1−12)、山の上でのイエスの有名な言葉を心に響かせながら、のんびりとガリラヤの丘を散歩しました。
 帰り道に、マグダラのマリアの村、ミグダルを目で追いながら、イエスの赦しがもたらす“新しい誕生”について静かに黙想しました。
 そして再びナザレ。イエスの時代におよそ三百人の小さな村だったのに、今は七万人の町になりました。様子はすっかり変わってしまいましたが、きっと変わっていないのは朝早く私を起こした鶏の鳴き声でしょう。そのナザレは7月中旬にレバノンの南部からヒズボラの民兵によるロケット攻撃を受けました。4ヶ月半前に私たちはガリラヤの野の花の美しさに魅せられて、野原で無邪気に歓喜の声を上げていたのに…。
 “神のぶどう畑”を意味しているカルメル山の上から私たちが見下ろしたイスラエルの空軍基地から、今は(8月1日現在)レバノンの方へ戦闘機は次々と離陸しています。…4月25日、午前十時に第二次世界大戦中のユダヤ人の大虐殺(ホロコースト)を思い起こすための黙祷の間、大勢の人々と共に心を込めて平和を祈り求めたばかりなのに。…イエスが育ち、活躍されたガリラヤに、真の平和がいつ訪れるのでしょうか。
 それでもガリラヤ地方を巡って私は確信しました。ガリラヤ湖のほとりで、ガリラヤの丘で、風が運んでくれたイエスの声にいつかは人々が耳を傾けるでしょう。いくら嵐が襲いかかろうとしても、いつかはイエスの福音は人の心を潤し、人の心に深く浸透し、人の頑なな心を変えるでしょう。しかしそのために、イエスよ私たちがその福音を宣べ伝え、証しするためにあなたから遣わされていることをもっと認識させて下さい。
                                  (続く)
2006年9月号
ベリオン・ルイ神父

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