証し人になろう(No.161)

来る11月24日正午から長崎ビッグNスタジムでペトロ岐部と十八七殉教者の列福式が執り行われる事を皆さんもご存知の通りです。私達の教会にとってその列福式は嬉しい事ですが、どうしてかよくわかりませんが、どこかで私は素直にその喜びに身を任せる事が出来ません。きっとそれは当時の殉教者が残した証しと現在の私達の証しとの間に隔たりを痛切に感じているからでしょう。確かに状況は違いますし、当時のキリスト者が皆殉教した訳ではありません。それにしても、ちょっとした理由で主の日の感謝の祭儀(ミサ)へ参加を“サボっている”方々の事を思うと、その方々は日々どんな証しを立てる事が出来るのでしょうか。主の日にキリストの共同体として集う事は私達の信仰生活の全てではない事を承知していますがその努力さえしなければ本当に社会の中で福音に従って生きる事が出来るでしょうか。
 自分の信仰を養うために神の言葉、特に福音を知り、その福音に自分の日常生活を照らし合わせるように心掛けなければ、どんな証しを立てる事が出来るでしょうか。学校行事、塾やクラブ活動を優先して子供達は教会の信仰と生活に触れる事が出来なければ、どうしてキリスト者として育つ事が可能になるのでしょうか。祈る事を体験しなければ、どの様にして洗礼による信仰の火を灯す事が出来るでしょうか。
殉教者の時代と違って私達は信仰の自由を味わっているのですが、私達はその自由をどのようにして活かしているでしょうか。その自由は証しの開花どころか、その緩みを生み出しているのではないでしょうか。
だからこそ殉教者の列福を盛大に祝う事を機会にして、もう一度証しする事について日本の教会として考えよと主張する方は大勢いらっしゃると思います。しかしそれは列福式がカトリック風のショーで終わらなければの話です。ルネッサンスを目指すという見方の正当性を認めながらも、私には疑問が残っている事を隠す事が出来ません。
現在、教会が直面している問題を分析し、迫ってきている危機に対して具体的な対策を講じるように心掛けなければ証し人が育たないではないでしょうか。確かに教会は企業ではありません。株主を意識してではなく、聖霊の導きに従って教会は進んで行くのですが、その導きに気付く為に目も心も頭も開ける必要があります。
聖書を読み、聖霊への祈りを唱えるとわかるように聖霊の働きは“すべてを新たにする”事に繋がっています。それをヒントにしては如何でしょうか。先ずそれを自分に当てはめて
「証し人を募集します」という看板を聖堂の入口に掲げたとしても効果がないでしょう。証し人に協力する必要がある事を認識しなければならないと思います。それに当って手助けになる事は三つあります。
一つ目は、神の言葉を読み、それに対する理解を深めるために努力する事。二つ目は、共同体の中で感謝の祭儀(ミサ)を中心に神の命(秘跡)に養われるように努力する事。三つ目は、個人的に命綱である祈りの内に神と交われるように努力する事です。その努力なしに聖霊に導かれた証しは有り得ないと思います。
長崎での列福式はこのような事の再確認の時となり、そして私達の共同体は殉教者の模範に照らされて現在の日本の中で勇気を持ってイエス-キリストの証し人の共同体となる事を心から祈ります。
2008年12月号
ベリオン・ルイ神父

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