宗教嫌い?(1)(No.118)

 “私は「宗教」に興味がありません。西欧の「宗教」を広めるために司祭になり、日本まで来たのではありません。”
 人の反応を引き起こすために、初めて、わざと、その極端な言い方をした時に、聞いていた方々の様子を注意深くうかがいました。呆気に取られた様子から顔をしかめる表情まで、口を開けて不平を言いたそうな様子から関心がそそられ輝く瞳まで、実に様々でした。
もちろん、その挑発的な発言をよく説明をしなければ、人の理解を得ることが出来ないのは承知の上です。しかしそれを機会にして、非常に大切なことについて真剣に考えることが出来るのではと思います。
 私は「宗教」というものを、好んで、“贈り物”を包んでいる“包装紙”にたとえています。「宗教」はある“信仰”をまとめ、伝え、証しするための形、手段だと思います。それをよく把握しなければ、そこに落とし穴が潜んでいるかもしれません。自分の「宗教」を他の「宗教」と比較し、その違いからどちらが本物かと考えがちになり、無意識のうちにも「宗教」の間に上下、ランクを付けてしまいます。そのために多くの人々が不愉快な思いをし、人の間で不信が広がり、不理解が増し、対立が生じ、下手をすればそれは争いにまで発展してしまいます。人類に奉仕し、貢献するどころか、「宗教」は敵対の種となり、戦いの材料になりかねません。
 “キリスト教”という「宗教」に話を絞りましょう。
 稀な例ですが、“教会から連絡をすることをやめてください。迷惑です。教会と関わりたくない”と激しく表明した方の話です。後にその方は不幸があって、教会での葬儀を求めに来ました。その家族の状態を配慮して、ミサを伴わない葬儀典礼を勧めたところ、“ミサをしてもらわなければ、仏教のお坊さんにお願いするよ”と言われました。唖然とした私は思いました。“その方は「宗教」がデパートのように客の奪い合いでもしていると思っているのか?”と。言うまでもありませんが、私は人を裁くつもりはないし、人が改心することが出来ることを信じているのですが、そのような方々にとって「宗教」とは何ですか。「宗教」と「信仰」との関係をどのように理解しているか。イエス-キリストへの信仰の内の交わりはどうなっているのでしょうか。司祭をどんな目で見ているのか。(宗教屋?)
 ―教会に姿を見せず、聖書の言葉と教会が求めていることに関心を示さず、司祭の召命について考えたこともない方々は、どうして、例えば葬儀のためにのみ、教会へ足を運んでいるのでしょうか。教会は自分の「信仰」を危ういものにしてまで無条件に“儀式”をこなして、人の言いなりになっていいのでしょうか。
 それに似通った例はいくらでもあることを皆さんもご存知のことです。それについて真剣に考える必要があると思いませんか。
下五島へ巡礼に行き(5月2日〜4日)、久賀島の牢屋の窄殉教記念聖堂で感謝の祭儀を捧げた時に新たに思いました。日本で殉教した大勢のキリスト者は西欧の「宗教」のために命を捧げたのでしょうか。それともイエス-キリストへの信仰を証しするために命を委ねたのでしょうか。
 今日(こんにち)、時には“包装紙”は“贈り物”の不在を隠しているのではないでしょうか。
 
 いずれにしても、“贈り物”とそれを“包装”しているものを同一のものとして見ることは賢明なことでしょうか。
2005年6月号
ベリオン・ルイ神父

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